忠順、最後の日々
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大政奉還が行われ、長きにわたった江戸幕府は終焉を迎えますが、徳川慶喜はなおも徳川主導の政治体制を確立しようとします。薩長の武力によってその願いは潰えますが、もしかすると薩長が恐れたのは慶喜個人ではなく、忠順が構想した「新生徳川幕府」かも知れません。それほど忠順の存在を恐れていた節があるのです。
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新政府軍に対し、徹底抗戦を主張
1867年の大政奉還に続いて、翌年早々に旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで敗戦を喫しました。大坂城にいた慶喜は海路江戸へ向けて脱出。新政府軍もまたそれを追って江戸へ迫ろうとしていました。
そんな苦境の中にあって、忠順は新政府軍に対して徹底抗戦を継続するべく画期的な構想を思いつきます。
新政府軍が箱根を超えたあたりで幕府陸軍が迎撃し、足止めしている間に幕府艦隊が後方の補給部隊を砲撃するというものでした。補給が途絶えた新政府軍を壊滅させ、再び旧幕府が京都へ攻め上るという巧妙な作戦だったのです。鳥羽・伏見で敗れたとはいえ、旧幕府軍はまだまだ健在で、艦隊もまったく無傷でした。
しかし、肝心の慶喜にその気がなければ画餅に過ぎません。結局は忠順の案を容れず、勝海舟の献言に従って新政府へ恭順する姿勢を取るに至ったのです。
長州の兵学者大村益次郎が「もしその作戦が決行されていたなら、我々の首はなかったことだろう。」と述懐したのは有名な逸話ですね。
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権田村での静かな日々
徳川慶喜に戦う意思がない以上、忠順にとっても戦う意味はありませんでした。1868年1月、勘定奉行を罷免されたことを機に所領のある上野国権田村(現在の群馬県高崎市)への隠棲を希望し、家族と共に引き移っていきました。
また旧知の者から千両箱を渡され、アメリカへ亡命することを勧められるも、これを丁重に断りました。「我らは上野国へ引き移るが、もし私の家族が困窮することがあれば、その時はよろしく頼む。」と言ったそうです。
3月に権田村へ移った忠順は、そこで熟を開いたり水路を整備するなど静かな暮らしをしていたといいます。
ある時、勝海舟の使いで山岡鉄舟が忠順の元へやって来ました。江戸城明け渡しの交渉をする直前のことで、もし忠順から西郷隆盛に何か言いたいことがあれば?と聞きに来たのです。すると忠順はこう伝えてくれと頼みました。
「横須賀の造船所は、海軍強化のためにフランスと協同で造り始めたもの。今は戦争のために建設が中止されていますが、西郷さんには製鉄所を造り続けて頂きたいと存じます。そしてぜひ完成させて頂きたい。あの造船所は幕府のためではなく日本のために役立つのですから。そして絶対に必要なものですから。そのことを勝さんから西郷さんに交渉して頂きたい。」
忠順の思いは、すでに新政府を中心とした新しい世界へ向いていたのかも知れませんね。
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忠順の最期
日本の新しい夜明けを夢見て駆け抜けてきた忠順。しかし彼は明治の世を見ることなくこの世を去ることになります。
権田村に移り住んでしばらくして、忠順が持っているであろう莫大な資産を奪い取るため、良からぬ博徒たちが人数を集めて屋敷を取り囲みました。その数およそ1千人。かたや屋敷を守るのは20人ばかりでした。もちろん忠順にめぼしい財産など残っているはずがないのに。
家族を守るために忠順たちは鉄砲を撃って戦いました。しょせん相手は素人同然ですから、あっという間に逃げ去ってしまいました。しかしこれが忠順の運命を決定付けるのです。
4月4日、新政府の命を受けた高崎・吉井・安中藩兵らに忠順は捕縛され、まともな取り調べもないままに斬首されてしまいました。死罪の理由は「屋敷に大量の鉄砲を所持し、よからぬ企てをしたため。」というものでした。強盗から身を守るために戦ったに過ぎません。それは明らかに不法なものでした。
田舎に隠棲したとはいえ、その潜在能力を恐れた新政府軍が忠順の死を手引きしたことは疑いないところでしょう。しかし、もし彼を明治政府の行政官として就任させたなら、おそらくその能力を遺憾なく発揮したはずです。忠順は徹底抗戦を叫んだという理由もあるのでしょうが、その優秀さゆえに新政府から警戒されたのかも知れませんね。