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実は超がつくエリート「森鴎外」輝かしい生涯と作品をわかりやすく解説

『舞姫』や『山椒大夫』で有名である森鴎外。 しかし、日本の歴史で見ると彼は文豪というよりも軍人のお偉いさんというイメージの方が強かったのです。 どうして森鴎外は軍のお偉いさんから文豪へと変わっていったのでしょうか?今回はそんな森鴎外について解説していきたいと思います。

森鴎外ってどんな人?

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森鴎外は1862年に津和野藩(現在の島根県津和野)にの医者の息子として生まれました。

明治時代に入ると医者としてのキャリアを積んでいき陸軍の軍医総監にまで昇進。

日清日露戦争を医者として支えていきました。

また、ドイツ留学からは文学活動を始めていくようになり、舞姫や高瀬舟などの名作も数多く残しています。

森鴎外の生い立ち

森鴎外は1862年、津和野藩の藩医の息子として生まれました。ちなみに本名は森林太郎ですがここでは森鴎外に統一します。

森家は後継がなかなか生まれず祖父や父は養子出身であり、跡取りとなった森鴎外は幼いころから論語やオランダ語などを学び津和野藩の藩校である養老館では四書五経を学び、当時の記録には9歳のころには15歳相当の学力と推測されるほどの神童として名をはせました。

年齢を偽って東大合格

森鴎外が神童として名を馳せていた頃日本では廃藩置県によって津和野藩が消滅。これを受けて父と一緒に10歳で東京に行くことになりました。東京では同じく津和野藩出身の西周に一時寄宿しながらドイツ語を学び、1873年には第一大学医学校(現在の東京大学医学部)に12歳で合格。この頃は14歳で入学となっていたため二年偽っての入学となります。

まさしく日本随一の学力が備わった神童だったのですが、特に強かったのがドイツ語。語学に堪能だった鴎外はこの頃から文学に対しても興味を示すようになっていきました。

そして19歳の時に卒業席次が8番で卒業。軍医になるように勧められたこともあってか鴎外は東京陸軍病院に勤務するようになり、さらには文部省から国の費用でドイツに渡ることが許される文部省派遣留学生としてドイツに行くことになるのでした。

ドイツ留学

森鴎外は留学生としてドイツに行く前に軍医としてのキャリアを積むためにプロイセン軍の衛星制度をあらかじめ学び、1884年にドイツ留学を命令。明治天皇に拝謁した後、横浜港から3ヶ月かけてベルリンに入りました。

森鴎外はそこから4年間かけてライプツィヒ大学やミュンヘン大学、そして細菌学者として名を馳せていたロベルト・コッホの衛星試験所など様々な機関で勉学に勤しみ、1888年に日本に帰国しました。

日本の軍医として

日本に帰国してから6年後の1894年。日本と清の間で日露戦争が勃発。鴎外はこの時日本が占領した遼東半島に勤務しており、下関条約が結ばれるまで滞在することになります。

そして、下関条約が結ばれて日清戦争が終わった後も鴎外は日本に割譲された台湾に勤務を行うことを命じられ、台湾に出張。4ヶ月ほど勤務して日本に帰還しました。

その後は軍医監に昇進し、小倉に赴任、らこの時に晩年の創作のテーマとなる歴史に興味を持つようになります。

そして1904年には日露戦争が勃発し、第2軍軍医部長として出世。この時の働きが認められて1907年についに日本軍医の最高位である軍医総監にまで上り詰めたのでした。

軍医総監ってどれくらい偉いの?

森鴎外のもう一つの肩書でもある軍医総監。

言ってしまえばこの役職は軍医の中でトップに位置している役職です。

軍医総監は陸軍の中では少将と同じくらいとされてきましたが、森鴎外の頃になると中将相当に当たる地位となり、一つの軍を指揮する立場と同じレベルとなっていました。

日本の文豪として

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森鴎外は軍医が主な任務でしたが、時折自分の経験や歴史を見て小説を書くことがありました。

鴎外は文学を高尚な文体で描く高踏派を自称しており、明治時代では夏目漱石と並ぶ文豪となっていきます。次はそんな森鴎外がどのような作品を残していったのかについて見ていきましょう。

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