日本の歴史鎌倉時代

武家が朝廷を倒す?日本の歴史を大きく変えた「承久の乱」をわかりやすく解説

承久の乱(じょうきゅうのらん)とは鎌倉時代に起きた、朝廷と鎌倉幕府との戦いのこと。日本において絶対的な存在であるはずの朝廷が武士に負けた……かなり衝撃的な事件として歴史に刻まれています。かなりインパクトの大きい出来事なのですが、日本史の中には「〇〇の乱」と呼ばれる出来事がたくさんあるせいか、今一つ薄い印象。日本の転換期ともいえる時代に起きた「承久の乱」。どんな戦いだったのか、この記事で詳しく解説してまいります。

なぜ起きた?「承久の乱」の原因と時代背景

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鎌倉時代、源頼朝によって武家社会が始まってはいましたが、まさか「朝廷の軍が武家政権に敗北する」なんてことが起きるなど、誰も考え付かなかった時代に、まさかの出来事が起きてしまいました。一体何が原因で「承久の乱」が始まったのでしょうか。戦が起きる前の出来事から、順を追って追いかけてみましょう。

実権を握る北条氏と鎌倉幕府

承久の乱が起きたのは1221年。その時代背景を知るには時間を少しだけ戻して、鎌倉幕府が成立し源頼朝が征夷大将軍になった1190年前後の様子を知っておく必要があります。

京都で平家が幅を利かせていた時代に絶対的な権力を持っていた後白河法皇が亡くなり、朝廷でも一つの時代が終わろうとしていました。

後白河方法亡き後、朝廷で権力を握っていた九条家は源氏と馴染みが深く、朝廷と鎌倉幕府はなかなかいい感じ。しかし1199年に頼朝が落馬して死去。これからというときに……。幕府内がにわかに騒がしくなります。

頼朝には2人の息子がいました。源頼家と源実朝。普通に考えれば長男の頼家が将軍を継ぐのが自然ですが、幕府内には弟の実朝を押す声も多く、幕府は真っ二つに分かれて騒然。頼家は1204年、実朝に味方する北条氏によって暗殺され、続く実朝も1219年、頼家の子供に暗殺されてしまいます。

源氏の血筋が途絶えてしまった!武家社会はどうなるの?

この時幕府を掌握したのが北条氏でした。北条氏は幕府内で大きな力を持ち、武家社会の中心的存在となっていきます。

その頃朝廷では~後鳥羽上皇の動き

一方、朝廷でもこの頃、いろいろと動きがありました。

中心となった人物は、後鳥羽(ごとば)上皇です。後鳥羽上皇は歴史上の天皇の中でも屈指の能力を持つ優秀な人。常々、朝廷の力を取り戻そうと画策していたと伝わっています。

上皇は大きな権力を持っていましたが、鎌倉幕府の存在をよく思っていませんでした。大きな理由のひとつが年貢の減少。当時、朝廷や上皇の財源は所領の「荘園」でとれるお米が中心でしたが、各地で年貢を徴収する役を担っていたのが、幕府から派遣された地頭(じとう)と呼ばれる役人たちでした。

地頭たちの給料は徴収した年貢の中から支払われるのが通例でしたが、鎌倉幕府の地位が確立し武士たちの信頼度が高まってくると、地頭たちは自分たちの取り分をどんどん増やしていき、朝廷に入る年貢が減っていってしまったのです。

これは面白くない。忌々しい武士たちめ。耳をすませば後鳥羽上皇の歯ぎしりが聞こえてきます。

そんな時に飛び込んできた、実朝暗殺の一報。後鳥羽上皇がこの機を逃すはずはありません。

えっ?まさか!?後鳥羽上皇の挙兵

後鳥羽上皇がそこまで鎌倉幕府を憎んでいるとは……。お金の恨みは怖いです。

しかし当の幕府側がどう考えていたかというと、朝廷との関係は決して良好なものではありませんでしたが、上皇がそこまでキリキリしているとは思っていませんでした。

なんとなく「東は鎌倉幕府、西は朝廷」くらいに思っていたのかもしれません。

あるいは、皇位継承だのなんだのと、ちょいちょい面倒な問題を起こしてはあれこれ言ってくる朝廷や貴族はうるさいので京都でおとなしくしておれ、くらいに思っていた可能性も高いです。

一方の後鳥羽上皇から見れば、鎌倉幕府をはじめとする武士たちは、あくまでも朝廷に仕える者たちであり、立場は下。下の者たちに甘く見られ、年貢をかすめ取られて怒り心頭です。

打倒・鎌倉幕府。後鳥羽上皇はとうとう、挙兵を決意します。

北条氏の頭領は、源頼朝の奥さん・北条政子の弟である北条義時(ほうじょうよしとき)。執権の分際で幕府を取り仕切って偉そうにしている義時を討つ時がやってきました。

ついに上皇は1221年、北条義時追討の宣旨(せんじ・天皇じきじきのの命令。今回の場合は上皇が発したものなので院宣という)を出します。いよいよ、承久の乱の始まりです。

北陸・東海・京都……「承久の乱」の流れとその後

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かくして、朝廷の力を取り戻したい後鳥羽上皇は挙兵。倒幕に動きます。宣旨なるものが出た以上、北条義時は朝敵。日本全国を敵に回したも同じです。戦う前から勝利を確信していたと思われる後鳥羽上皇ですが、戦況は思い通りにはいきませんでした。どのような結末を迎えたのか、承久の乱の詳細について見ていきましょう。

「心をひとつに」北条政子の力強い演説

北条義時追討の宣旨が出た……。これを聞いた武士たちは衝撃を受けます。

今までの常識からすれば、宣旨=負け。朝廷を相手に勝てるわけがない。

幕府に恩義はあるし武士としての誇りもあるけれど、上皇に逆らったら一族もろとも皆殺しに合うかもしれない……。朝廷側につくべきか悩む武士たちが大勢いました。

まさに、後鳥羽上皇の思惑通りの展開です。

混乱する鎌倉幕府。それを見て、一人の人物が立ち上がります。源頼朝の奥さんであり、実朝の母でもある北条政子です。

北条政子は動揺する武士たちを前に、幕府への恩義を忘れたのか、と力強く語りかけます。

その恩は山よりも高く海よりも深いはず。その恩を忘れ、朝廷につきたいのなら止めはしない。今すぐ出ていきなさい!と叫ぶ北条政子。その言葉に多くの武士が心動かされたと伝わっています。

実際、東国の武士たちは、京都の貴族たちに蔑まれ、いいように使われてきた苦い思い出を持っていました。今一瞬旗色が悪いからと言って上皇の側についても、結局また、同じことの繰り返しに決まってる……。

朝廷の奴らに一発カマしてギャフンと言わせてやろうぜ!おう!北条政子の演説を機に、武士たちの士気が高まります。

武士を甘く見て痛い目に合う後鳥羽上皇

宣旨が出てから数日後、北条政子の演説の3日後のこと。結束力を固めた武士たちは勢いに乗って京都へ出陣します。

東海道を進む北条泰時軍が10万、甲斐の山間を道を行く武田信光軍が5万、そして越後・加賀に入り北陸路を通って京へ向かう北条朝時軍が4万。総勢19万騎。泰時も朝時も、義時の息子たち。頼もしい限りです。

記録上の数字は少し多めに記されているのかもしれませんが、とにかくそれくらいの勢いはありました。途中に陣をはる朝廷軍を破竹の勢いで蹴散らし、圧倒したまま都に肉薄します。

これに驚いたのが後鳥羽上皇をはじめとする朝廷側です。楽勝と思っていたので何の準備もしていません。

慌てて比叡山の僧兵に助けを求めたりしますが間に合わず、そうこうしているうちに幕府軍が宇治川に突入。激しい乱戦となります。

目立った離反者も出ず、20万近い軍勢を保ったまま都に雪崩れ込んできた幕府軍。都で暴れまわります。朝廷軍に勝ち目はありません。武士たちを甘く見ていた後鳥羽上皇、完全に読み間違いです。

宣旨のわずか1か月後、京内に攻め込んでわずか1日。鎌倉幕府側の圧勝という形で、承久の乱は終わります。

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