元寇の背景
13世紀初頭、モンゴル高原での遊牧民同士の闘争に勝利したチンギス=ハーンはモンゴルを統一。圧倒的な軍事力を背景に周辺諸国を次々と征服していきました。チンギスの死後もモンゴル帝国は拡大の一途をたどります。モンゴル帝国の第5代大ハーンになったフビライは中国など東アジア諸国の征服を重視。朝鮮半島にあった高麗を服属させ、中国の南宋を滅ぼします。
モンゴル帝国の成立
蒼き狼の異名を持つチンギス=ハーンはモンゴル族を率いてモンゴル高原にある遊牧民族同士の闘争に勝利。モンゴル帝国を建国します。モンゴル軍はチンギスが定めた厳正な軍紀により精強な戦闘集団となっていました。
騎馬隊主体のモンゴル軍は高い機動性を持っており、一日に70キロメートル行軍することができます。そのため、歩兵主体の周辺諸国の軍勢を機動力で圧倒しました。チンギスは中央アジアに進出しイランなどを治めていたホラズムを滅ぼします。
チンギスの死後もモンゴル帝国の拡大は続きました。2代目オゴタイ=ハーンの時代、中国北部にあった金を滅ぼします。また、バトゥがロシアや東ヨーロッパに遠征。ワールシュタットの戦いでドイツ=ポーランド連合軍の重装騎兵を打ち破りました。
4代目のモンケ=ハーンの時代にはアッバース朝を滅ぼし、西アジアをほぼ手中におさめます。騎馬隊の圧倒的な力を背景に、モンゴル帝国は世界最強の帝国となりました。
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フビライの登場と元の建国
モンケ=ハーンの死後、帝国の指導者である大ハーンの座をめぐって争いが起きます。この争いに勝利し、モンゴル高原や中国北部を中心に勢力を拡大したのがフビライでした。
1267年、フビライ=ハーンは都をモンゴル高原のカラコルムから現在の北京にあたる大都に遷都。本格的な中国征服を目指しました。フビライはモンゴル人や契丹人、女真人などに加えて肝心も積極的に登用。特に漢人軍閥の史天沢はフビライのもとで大活躍します。
1271年、フビライは中国風の国号である「元」を使い始めました。これは、フビライが本格的に中国を支配しようとしていたことを意味します。元では中国風の政治のシステムを採用しましたが、人事では「モンゴル人第一主義」をとりました。
これは、最上位にモンゴル人、次いで財政などを担当する西方出身者である色目人、かつて金の領土に住んでいた漢人、のちにフビライが征服した南宋の支配地域に住んでいた南人にランク分けするものです。こうして、フビライをトップとする帝国である元がつくられました。
高麗の元への服属と南宋の衰退・滅亡
10世紀に建国された高麗は朝鮮半島を支配する王朝です。12世紀、高麗は武人である崔氏が政治の実権を握っていました。13世紀に入ると、モンゴル帝国は高麗を攻撃し服属させようとします。
モンゴル軍の猛攻を前に、高麗は都を明け渡して江華島で抵抗をつづけました。フビライは高麗に属国になれば存続を許すと勧告。高麗はモンゴルの従属国となりました。
反モンゴル派の武人である三別抄は1270年に反乱を起こしますが、1273年にモンゴル軍と高麗軍によって鎮圧されてしまいます。高麗を完全に従えたフビライは、1274年に文永の役を実行しました。
1276年、元は大軍を派遣して南宋を総攻撃。南宋を滅亡に追いやり、中国を統一します。後顧の憂いをなくした元は、その矛先を再び日本に向けました。
北条氏による執権政治と若き執権北条時宗
モンゴル帝国がユーラシア大陸を席巻していたころ、日本では源頼朝が鎌倉幕府を成立させていました。頼朝が亡くなり、息子の頼家、実朝が相次いで死ぬと鎌倉幕府をつぶしてしまおうと考えていた後鳥羽上皇が挙兵します。
しかし、頼朝の死後も幕府を支えていた妻の北条政子や政子の実家にあたる北条氏は、幕府を守るために幕府方の武士である御家人を動員しました。承久の乱とよばれるこの戦いは、後鳥羽上皇軍に数倍する兵力を動員した幕府方の勝利に終わります。
乱の後、北条氏を鎌倉幕府の事実上のトップとする執権政治の仕組みが確立しました。フビライが日本に服属を要求する使者を送ってきたころ、鎌倉幕府の執権は8代目の北条時宗。20代の若者だった時宗は元の侵攻という国難にいかにして立ち向かったのでしょうか。
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元寇の経緯
高麗を服属させ、南宋も追い詰めつつあったフビライは海の向こうにある日本も服属させようとしていました。鎌倉幕府執権の北条時宗はフビライの要求を拒否。二度にわたる元の侵攻である元寇がはじまりました。幕府は各地の武士たちを動員し、防御態勢を固めます。最終的に日本の武士たちは元軍を追い払うことに成功しました。