ロシアの南下政策による影響
ロシアは、もともとヨーロッパでも北に位置しており、そのため暖かい南方への進出(南下政策)を国としての政策の中心にしていました。そのために、中央アジアとの境にある黒海のあるクリミア半島への進出を目指して、オスマン帝国と戦争を繰り広げ、最終的にはクリミア半島を手に入れています。クリミア半島は、最近では再びロシアが領土に組み込んで欧米の批判を浴びていますが、温暖なリゾート地であり、当時のロシア帝国のロマノフ家の別荘もあった場所です。
このロシアには、中央アジアとともに南下政策のもう一つの狙いがありました。ロシアの東のほとんどはシベリアという極寒地になっていたため、シベリア地域の南下政策として中国の清国との国境になっていた黒竜江以南への進出を狙います。しかし、その頃は清王朝の最盛期にあたり、容易に南下はできませんでした。そこでもう一つの南下政策としてとられたのが、サハリン(樺太)からの海上を通じた南下政策でした。そのため、18世紀末くらいから日本との通商を求めるとともに、サハリンや北方領土の調査をおこなうようになっていたのです。
もともと清王朝、朝鮮王朝も鎖国をしていた
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東アジアでは、もともと中国の15世紀以降には当時の明王朝が鎖国を打ち出し、それを後継王朝の清王朝も受け継いでいました。中国王朝の国境線は大国だけに長く、しかも歴史的に北方からの侵略が継続してあったために、万里の長城などを築いて警戒が強かったといえます。しかし、太平洋側の長い海岸線においてはもともと中国を侵略する勢力もなかったことから警備は緩く、伝統的に中国南方では東南アジアなどとの民間交易が活発に行われていたのです。
また、中国王朝の属国扱いをされていた朝鮮王朝でも鎖国がおこなわれ、日本も西洋諸国の来訪が盛んになると鎖国をしています。
しかしながら、西洋諸国では産業革命の進展とともに近代文明が芽を吹き、生産力が拡大するとその近代技術を活かした軍事装備の発展も起こりました。アジアに市場を求めて植民地などの開拓が盛んになっていきます。しかし、清国も朝鮮王朝、日本の江戸幕府もそれらを知るのは一部の民間の人々に限られていたのです。
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アヘン戦争の敗北の激震は異国船打払令を打ち砕く
しかし、アヘン戦争で清国がイギリスに負けたという報告はすぐに長崎奉行から幕府の老中に伝えられました。そして狼狽した老中は、西洋の攻撃力の強さに驚愕するとともに、恐怖をおぼえ、異国船打払令を廃止し、文化年間におこなわれた薪水給与令に戻してしまったのです。これを天保の薪水給与令と言っています。
これこそは、「井の中の蛙、大海を知らず」そのものだったと言えるでしょう。
黒船に乗ったペリー提督の来航
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そして、予想通り欧米の来訪の時代が来ます。1853年にアメリカ大統領の親書を携えた黒船艦隊を率いるペリー提督が浦賀に現れたのです。そして、翌年には日米和親条約が結ばれ、下田と函館を開港して鎖国をやめる結果になりました。さらに、日米和親条約は、2港の開港を除けば、薪水給与令とそれほど変わらなかったのですが、アメリカはさらに通商条約を締結し、交易を始めるように要求します。そのときには、中国で第二アヘン戦争ともいわれるアロー戦争がおこなわれ、再び清王朝は敗北を喫して多額の賠償金と開港並びに租借地も取られていました。アメリカのハリス領事はこのことを例にあげて日本も同様の結果になる可能性が高いと脅したのです。
そのため、幕府は西洋諸大国が日本に押し寄せてくることを恐れて、大老井伊直弼が勝手に「日米修好通商条約」を結んでしまいます。
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