異国船打払令の撤回にいたる
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江戸時代末期の1842年に幕府には衝撃が走ります。アヘン戦争で中国の清王朝が負けたことが長崎奉行から伝えられたからでした。それ以前に幕府には異国船打払令に対して国内で非難が沸き起こっていたのでなおさらだったのです。
モリソン号事件における幕府の姿勢に批判が起こる
1837年に日本の救助された遭難漁労民を乗せていたアメリカ船籍の商船モリソン号に対して日本の薩摩と浦賀の砲台がイギリス軍艦と間違えて砲撃をするという事件が起こります。アメリカは漁労民を送り届けるとともに通商交渉を求めて来日しようとしていたのです。そのため、アメリカ合衆国から抗議を受けるとともに、日本国内でも渡辺崋山、高野長英らから行き過ぎた異国船打払令に対して批判が沸き起こりました。
中国の清王朝がアヘン戦争で英国に敗れる衝撃と異国船打払令の撤回
それから5年も経った頃に長崎奉行から、イギリスと清国が戦争をして、清国はこっぴどく敗れてしまい、香港などの割譲やイギリスとの通商を了承させられたことが伝えられます。アヘン戦争です。それまで、東アジアでは中国の清王朝の存在は絶対であり、世界でももっとも進んだ国と思っていた幕府の老中たちはあわてふためきます。幕府は狼狽の末に、ついに異国船打払令を廃止して、再び薪水給与令(天保の薪水給与令)に戻したのです。
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東アジア情勢の変化とその鎖国への影響
江戸幕府が狼狽したのは、東アジアにおける政治情勢の変化と西洋文明における科学技術と軍事力の進歩をほとんど知らなかったためでした。
江戸幕府は、江戸時代初期に鎖国令を出して、中国とオランダのみ長崎の出島での交易以外は外国との接触は禁じています。当初は、長崎の出島から伝わる西洋事情を長崎奉行から手に入れていましたが、次第に幕府の老中にはそれらの情報を軽視する傾向が強まりました。民間では蘭学(オランダの西洋文化の研究)が生まれましたが、幕府は次第に西洋文明に対する情報が集まらなくなっていったのです。それどころか19世紀に入ると蘭学者の渡辺崋山、高野長英らを捕らえるという暴挙に出るようになり、それも異国船打払令につながりました。
しかし、その間にも欧米では産業革命を背景に近代化が進み、高まる生産能力を背景にアジアなどにおける市場開拓が進んでいたのです。
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