日本の歴史昭和

日本国内で最大の激戦「沖縄戦(沖縄の戦い)」の背景・経緯・その後をわかりやすく解説

沖縄県南部の糸満市は沖縄本島最南端にある町です。この地はで沖縄戦最後の激戦が繰り広げられました。海岸線を眺望できる場所にある平和祈念公園には、沖縄戦で亡くなった方の氏名が刻まれた「平和の礎」があります。軍民あわせて20万人もの被害を出した沖縄戦はどのような戦いだったのでしょうか。今回は、沖縄戦の背景・経緯・その後についてわかりやすく解説します。

敗色濃厚となる日本と沖縄に迫る戦火

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真珠湾攻撃でアメリカ太平洋艦隊を壊滅させた日本海軍は、怒涛の勢いで太平洋の各地を制圧します。しかし、1942年のミッドウェー海戦での敗北を機に守勢に回った日本は、物量に勝るアメリカ軍の反撃に徐々に押されました。サイパン陥落後の本土空襲や硫黄島の陥落により、アメリカ軍は日本本土に迫ります。沖縄にもアメリカ軍上陸の時が迫りつつありました。

ミッドウェー海戦の敗北

1942年6月、中部太平洋にあるミッドウェー島をめぐって日米両軍の機動部隊が激突するミッドウェー海戦が起きました。事前に日本軍のミッドウェー攻撃の情報をつかんでいたアメリカ軍はミッドウェー島の防衛を強化。さらに、エンタープライズなど航空母艦3隻を投入し、日本軍の襲来を待ちます。

ミッドウェー島を攻撃した南雲機動部隊は、ミッドウェー島防衛隊の予想以上の抵抗に苦戦を強いられました。南雲機動部隊の位置をつかんだエンタープライズなどのアメリカ機動部隊は先制攻撃をかけることに成功。南雲機動部隊は主力である航空母艦4隻を失う大敗北を喫します。

ミッドウェーでの敗北後、太平洋での戦局の主導権はアメリカに奪われてしまいました。日本軍は、真珠湾攻撃の痛手から再建されたアメリカ海軍によって徐々に追い詰めていきます。

マリアナ沖海戦の敗北とサイパン陥落

ミッドウェーでの敗戦後、ガダルカナル島の攻防戦やソロモン海戦でも日本軍は敗北。アメリカ軍はサイパン島へと迫りました。アメリカ軍がサイパン島を目指した理由は、サイパン島を日本空襲の拠点として使用するためです。アメリカ軍のB-29爆撃機は、サイパン島からなら日本の主要工業地帯のほとんどを空襲することができました。

東条内閣はサイパンを絶対国防圏と位置づけます。日本海軍はアメリカ海軍をマリアナ沖で迎撃しまが、航空母艦3隻を失う大敗を喫してしまいました。マリアナ沖海戦の敗北により、制海権・制空権を失った日本軍はサイパンを防衛することはできなくなります。

1944年7月、サイパン島が陥落すると東条英機は責任を取って内閣を総辞職。かわって、小磯国昭が組閣しました。

硫黄島の陥落と東京大空襲

サイパンを攻略したアメリカ軍はB-29爆撃機を使用して日本各地に空襲を加えました。サイパンと日本本土の中間地点にある硫黄島は日本軍の防空の拠点として機能します。

時に、硫黄島を経由した日本側の爆撃機がサイパンを爆撃するなど、反撃の拠点としても機能していました。アメリカ軍は同時進行していたフィリピン攻略作戦がほぼ終了しつつあった状況を踏まえ、硫黄島の攻略を決定。

1945年2月、アメリカ軍は硫黄島攻撃を開始しました。日本軍守備隊は栗林忠道の指揮の下、友軍の支援がないまま硫黄島でアメリカ軍と戦闘。その大半が玉砕します。

硫黄島を占領し制空権を盤石なものとした、アメリカ軍は東京に大規模な空襲を加えました。いわゆる、東京大空襲です。東京大空襲での死者は10万人以上にも及びました。

アメリカ軍が沖縄に侵攻した理由

フィリピンを制圧したのち、アメリカ軍は日本本土への上陸を企図します。そのために攻略目標として選ばれたのが沖縄でした。

沖縄は日本列島全体から見れば西の端に位置しますが、沖縄を中心に地図を見直すとまるで違う姿が浮かび上がります。沖縄本島は北に行くと奄美諸島・九州に連なり、南に行くと台湾・フィリピンへと到達。西に進めば、中国の華南地方に行くことができました。つまり、沖縄は日本と台湾・中国・フィリピンなどの中間地点に位置する戦略上重要な島なのです。

室町時代、沖縄にはその地理的優位を生かし貿易で繁栄した琉球王国がありました。アメリカ軍にとって、沖縄は日本上陸の足掛かりにできるだけではなく、物資輸送の要ともなる重要な島なのです。

ついに、凄惨な沖縄戦が始まった

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硫黄島を陥落させ、日本本土を空襲していたアメリカ軍は、ついに沖縄本島に向けて軍を差し向けます。1945年3月から始まった沖縄戦は軍人だけではなく、多数の民間人も戦争に巻き込まれる凄惨な戦いとなりました。沖縄戦に投入された日米両軍の戦力や戦いの経過、民間人の動員などについてまとめます。

沖縄に展開した日本軍の戦力

戦局が不利に傾きアメリカ軍が沖縄に迫ると、日本軍は沖縄の防備を固めます。1944年、沖縄方面を守備するため第32軍が創設されました。沖縄戦開始当時の司令官は牛島満中将です。

第32軍には第24師団、28師団、62師団など陸海あわせて116,400名が配属されました。対するアメリカ軍は50万人以上を動員。圧倒的な戦力差で短期間に沖縄を制圧しようと考えます。

陸軍は圧倒的兵力差や援軍が来る可能性が低いことから、長期持久戦略をとりました。一方、海軍は特別攻撃隊、いわゆる特攻隊を用いてアメリカ軍に痛撃を与え、その戦果をもって講和に持ち込もうとします。そのため、海軍は沖縄戦の最中に大和を中心とする部隊を沖縄に派遣しました。

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