列強の接近で緊迫する日本周辺海域
18世紀後半から19世紀前半にかけて、東へと領土を拡大したロシア帝国が北から日本列島近海に進出しようとしていました。このことを知った幕府は北方探検を実施し、蝦夷地を幕府直轄としてロシアの脅威に備えます。19世紀前半に起こったフェートン号事件とゴローウニン事件は幕府の緊張感を高めるのに十分でした。幕府は異国船打ち払い令を出して、鎖国体制を守ろうとします。
ロシアの南下と高まる海防論
16世紀から18世紀にかけて、ロシア帝国は帝国の東に広がるシベリアを探検・征服していきました。ユーラシア大陸の東の果てにある日本近海にも、ロシアの南下政策が及びます。
仙台藩の医師である工藤平助は『赤蝦夷風説考』で、ロシアに警戒するよう説きました。『三国通覧図説』の著者である林子平は、日本が日本近海など周辺のことをしっかりと知らなければ、外国に攻め込まれたときに危険だと主張します。こうして、江戸時代後期の日本では、海の向こうからやってくる外国に備えるべきだとする海防論が盛んになりました。
林子平は、『海国兵談』の中で、周囲を海に囲まれた日本は、外国勢力を撃退するために強力な艦隊と隙のない砲台建設が必要不可欠だと説きます。『海国兵談』は、政治に対する口出し、幕政批判とみなされ老中松平定信に処罰されました。
北方探検と蝦夷地直轄
1792年、ロシア使節ラクスマンが蝦夷地の根室に現れました。蝦夷地は、松前藩が支配していましたが、石高1万石扱いの小藩だったため、沿岸警備に手が回りません。
しかも、蝦夷地には多くのアイヌ民族が住んでいました。幕府が、ロシア人がアイヌ民族と手を組むことで蝦夷地を蚕食するのではないか、という危惧を抱いたとしてもおかしくありません。
1799年、江戸幕府は東蝦夷地を松前藩から召し上げ、幕府直轄領とします。1807年には残る西蝦夷地も幕府領とし、箱館奉行を設置しました。諸外国との緊張が緩んだ1821年、蝦夷地の大半を松前藩に返還します。
同じころ、近藤重蔵や最上徳内らは国後島、択捉島などを探査。さらに、間宮林蔵が樺太を探検し、本格的な北方探査を行いました。
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長崎にイギリス船が侵入したフェートン号事件
19世紀のはじめ、ヨーロッパはナポレオン戦争のさなかでした。イギリスは、ナポレオン戦争で戦っていたオランダ船を世界各地で拿捕しようとします。
1808年8月15日、イギリスのフリゲート艦フェートン号は、オランダ船を求めて長崎にやってきました。フェートン号は偽ってオランダ国旗を掲げ、長崎に入港します。
フェートン号は、出迎えにやってきたオランダ商館員を拘束。停泊しているオランダ船がいないか捜索しました。
オランダ船の不在を確認したフェートン号は商館員を人質にして食料や水を要求。長崎奉行はやむなくフェートン号の要求に応じました。フェートン号は提供された物資を詰め込み、人質を解放して長崎を出ます。
事件後、長崎奉行は責任を取って切腹しました。フェートン号事件は議論されていた外圧が現実のものとなった例と言えますね。
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異国船打払令
1825年、幕府は鎖国を徹底させるため異国船打払令を発布します。日本近海に出没する外国船に対し、見つけ次第砲撃すること、上陸した外国人については逮捕することなどを定めた命令で、「有無に及ばず一図に打払」うとの内容から、別名、無二念打払令といわれました。
命令が出された背景には、フェートン号事件だけではなく、イギリス人ゴルドンの幕府に対する通商要求や、イギリス捕鯨船員による水戸藩領上陸と逮捕、薩摩藩領で起きたイギリス人船員による略奪行為などがあります。
武士政権である江戸幕府としては、軟弱な対応は取れないと判断したのかもしれません。しかし、この命令は一歩間違えば欧米諸国と戦争になるかもしれない危険性をはらんでいました。アヘン戦争で清が敗北したことを知った幕府は、1842年に異国船打払令を廃止します。
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シーボルト事件
シーボルトはオランダ商館付の医師として長崎の出島に入りました。来日したシーボルトは日本の動植物を研究し、蘭学塾である鳴滝塾を開きます。また、シーボルトは幕府天文方の高橋景保と親交を結びました。高橋は伊能忠敬の地図をシーボルトに贈ります。海防に神経質だった幕府は伊能図の国外持ち出しを禁じていました。シーボルトが帰国する直前、地図を持ち出そうとしていたとされ、事件となりました。
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