そもそも「改易」とはどんなこと?
おそらく歴史の授業でしか習わないであろう「改易」について解説していきましょう。国語辞書では「改めかえること」「更新すること」の意味になりますが、江戸時代の改易はそういう意味ではなかったようです。
「改める」は「没収すること」
江戸時代、幕府が強権をふるって藩に対して処分を下すことが多々ありました。ちょっとケース別に見ていきましょう。
「転封」
その藩が良いか悪いかに関わらず、幕府の都合によって領地を替えさせられることですね。国替え、所替えともいいます。外様大名を地方の僻地へ飛ばしたり、譜代大名が栄転のために要地に配されたりと、色々なパターンがありました。
「減封」
武家諸法度に違反した場合や、藩主が幼少だった場合、また藩政がうまくいかずに混乱した場合などに課せられる処分でした。多くのケースでは転封とのコンボで発令され、半分程度の石高に減らされる厳しいものでした。
「改易」
跡継ぎがいない、お家騒動、武家諸法度違反、謀反の疑いなどがあった場合、藩に対して最も重いともいえる処分が改易でした。時代劇などでは「お取り潰し」ともいわれていますね。文字通り藩が取り潰されるわけですから、改易の「改める」とは、いわゆる「領地を没収した上で、改めて他の藩主に挿げ替える」ということになります。
ちなみに忠臣蔵の赤穂浪士で有名な赤穂藩は、浅野家が取り潰された後に永井直敬が烏山藩から移ってきていますね。
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大量の藩が改易処分になった江戸時代初期
1603年に開かれた徳川幕府は、それまでにない強烈な権力を持った組織でした。武力と財力をちらつかせて全てを言いなりにさせ、さらに1615年に制定した「武家諸法度」という法律で全国の諸藩をがんじがらめに縛りつけました。
さらに全国の要地に徳川一族の親藩や、徳川の家臣筋の譜代大名を配置して、反乱の芽を摘み取ることや、外様大名への監視の目を厳重にします。
そればかりではありません。「天下普請」と呼ばれる各地の城の大工事を、すべて大名たちの負担でやらせ、その財力すら奪い取ろうとしました。
すべては徳川幕府の思惑通り…しかし念には念を入れなければ済まないのが幕府の怖いところでしょうか。豊臣氏恩顧の外様大名たちをビシビシ取り潰し始めたのです。
豊臣秀吉の子飼いだった福島正則は、台風で壊れた石垣を修築しただけ減転封(実質は改易)され、山形の最上義俊はお家騒動で改易、熊本の加藤忠広も武家諸法度違反で改易されました。
外様大名だけではありません。徳川忠長や本多正純といった徳川一族、譜代大名ですら例外なく失策があれば改易処分となりました。
この徳川幕府の強硬な大名統制策を「武断政治」と呼んでいます。まさしく幕府の圧力で逆らうことすら許さず、どんどん取り潰していったのですね。
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実子以外に家督は継がせないよ?【末子養子の禁】
たしかに武家諸法度に違反したり、失点を重ねて改易処分に遭った藩も多かったのですが、実は改易の理由として最も多かったのが「末子養子の禁」に触れたというものでした。
簡単にいえば、家督を継ぐべき実子のいない大名が改易処分に遭うということ。一応は養子縁組を結んでおいて幕府へ届け出ればOKなのですが、実はそうもいかない事情もあったようです。
武家は誰だって自分の実の息子に家を継がせたいもの。そうやって連綿と血筋を繋いできたわけですね。だから男子ができなくても、いつかは生まれるだろうと頑張るわけです。しかし、当時はまさしく人生五十年の短命の時代。突然病気になって、そのままポックリ逝くことも多かったそうですね。
しかし藩主がいよいよ危ないという時に、あわてて血縁の者を養子にしようと届けを出しても後の祭り。幕府はそんなことは絶対認めません。藩主が亡くなった時点でその藩は取り潰しの憂き目に遭うのです。
藩主が幼少だった場合にも例外はありません。そもそも幼児に跡継ぎなど出来ようもなく、幼主が亡くなれば即、お家断絶となったのでした。
ちなみに末子養子の禁が緩和されるまでに改易に遭った藩は98藩。そのうち実子がいなくて養子も認められず無嗣断絶となった藩は43藩にものぼり、約半数の割合を占めています。
幕府の無茶苦茶ともいえる厳しさは、のちに大変な事件を引き起こすきっかけとなったのです。
大量の浪人発生で社会不安に!
江戸時代初期にこれだけ大量の藩が取り潰されたらどうなるか?現代のサラリーマンならぬ江戸リーマン(いわゆる武士たち)が大量解雇の憂き目に遭うことになりました。いわゆる浪人ですね。
縁故を頼ったり、能力次第では再就職も叶いますが、大多数の浪人たちはそうもいきません。仕事にあぶれた浪人たちが食い扶持を求めるために都市へ大量に流入し、社会不安を煽ったのです。
中にはヤケクソになって強盗、恐喝、殺人などの犯罪に手を染める者もいたことでしょう。江戸時代がスタートしてまだ間もない時期ですから、戦国の殺伐とした空気が残る時代でした。
そんな最中、幕府を揺るがす大事件が起こります。それが「慶安の変」という幕府転覆計画でした。
1651年、軍学者の由比正雪は、幕府のやり方に反発を抱く全国の浪人たちの支持を得て幕府の転覆を企てました。結局計画は事前に露見して、正雪はじめ首謀者の死をもって未然に防がれましたが、幕府が受けた衝撃は相当なものでした。
「これ以上、浪人を増やせば幕府が危うくなる!」そう考えた幕閣たちは、法律の改正を行い、藩の取り潰しを極力回避する方向へ舵を切ったのです。それが悪名高い「末子養子の禁」の緩和でした。藩主が17~50歳までの間ならば、急な養子を届け出てもOKという形になったのでした。
とはいえ、藩の取り潰しである改易が完全になくなったわけではなく、幕末に至るまで続いていくのです。
江戸リーマンたちはつらい!改易の実態とは?
「会社が倒産してしまった!さあ明日からどうしよう?」これは江戸時代の江戸リーマンたちも変わりはありません。自分の藩が改易となった場合、彼らはどのように向き合っていったのか?具体的に見ていきたいと思います。
サラリーマン化していた武士たち
まず一つ言えるのは、戦国時代までの中世の武士と、江戸時代の武士とでは立ち位置がまったく違うものだったということ。
中世の武士たちは「一所懸命」という言葉があるように、強烈に土地と繋がった存在でした。父祖伝来の土地をひたすら守り、そこから収入を得、人材を得て成り立っていました。マイナーな城も含めれば全国に3~5万もあるという城の存在も、その多くは土地を守るための砦だったわけですね。また主君からもらえる恩賞の多くも土地でした。当時の武士の存在価値は、土地を増やし守ることだったわけです。
ところが江戸時代の武士の場合はかなり様相が違っています。基本的に土地は幕府のもの。そこから各藩主へ預かりという形で貸し出されているという感覚でした。そのため土地から切り離された武士たちが収入として得るものは何だったのでしょうか?実は「俸禄」というサラリーだったのです。
家格や役職に応じて細かく俸禄が定められ、武士たちはその範囲内でやり繰りしていました。俸禄の多くはコメで支払われましたから、額面でいえば「〇〇石取り」や「〇〇俵取り」という表現になるわけです。
例えば平均的な中下級武士ですと、俸禄が150石程度。そこに税率が加算されるため、五公五民の場合は実収入が75石となります。現在の価値に換算すれば7~800万円程度ですから、そこから家族や使用人を養わなければなりません。やり繰りが大変だったことが偲ばれますね。
足軽・中間クラスとなるとさらに大変でした。100~200万円程度の収入しかないため、内職や副業などで副収入を得るしか方法はなかったことでしょう。江戸時代も終わり頃になると、武士身分を金で売ってしまう者も現れたそうです。