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革命~復古王政・激動の時代を生きたフランス国王「ルイ18世」の生涯をわかりやすく解説

「太陽王」と呼ばれたのがルイ14世、大変な浪費家でお妾さんがたくさんいて天然痘で亡くなったのがルイ15世、マリー・アントワネットの夫でフランス革命のとき処刑されたのがルイ16世……。そのあたりまでは記憶していたけれど、はて、ルイ18世なんていたかな?フランス王室と関係ある人?とお思いの方も多いのではないでしょうか。実はいるんです。ほんの少しの期間ですが、ちゃんとフランス国王となって「ルイ」を名乗っています。革命に揺れるフランスで、時代に翻弄されながら生きたルイ18世。今回の記事ではそんなルイ18世にスポットをあて、その生涯についてわかりやすく解説いたします。

ルイ18世の生涯(1):フランス革命と亡命生活

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ルイ18世、と聞いてもピンとこない人が多いのも無理はありません。フランス王室はフランス革命によって崩壊し、消え去ったものと誰もが考えるはず。しかしブルボン王朝の血を引く人物は他国に亡命するなどして何人か生き残っていました。ルイ18世もその一人。いったいどんな人物だったのか、今日までの間に残されている関連エピソードなどから紐解いていきましょう。

ルイ18世とは何者?ルイ15世の孫にしてルイ16世の弟

ブルボン朝(ブルボンちょう)とは、近代フランスにおける王朝の名称です。

その歴史は1589年から。ヨーロッパの歴史を紐解く際に避けて通ることができない「フランク王国(西フランク)」時代から、いくつかの王朝が誕生し栄光を築いてきましたが、ブルボン朝もその時代の流れを汲んでいる一族です。どの時代も王家というものは兄弟姉妹が多く、時が経つごとに親戚筋も増えて複雑になっていくため実にややこしい。とにかく1589年にアンリ4世という王が前王朝から王位を継承してフランス王となったところから、ブルボン朝の歴史が始まっています。

で、そのアンリ4世の息子がルイ13世。なぜ「13」なのかというと、おそらく、1から12までの数字は既に使われていたからでしょう。過去、西フランク王国の時代から王様の名前をたどっていくと、ルイ1世からルイ12世まで実在しています。ルイもアンリもフランス圏ではよくある名前で、王や王子は民衆にわかりやすい名前を名乗るのが慣例だったのかもしれません。

ちなみにルイ13世は、アレクサンドル・デュマによる小説『三銃士』にも登場します。

そして、その後もブルボン王朝は続き、ルイ13世の息子がルイ14世になり、ルイ14世の曾孫がルイ15世に。そしてルイ15世の孫がルイ16世となり、ルイ16世のときにフランス革命が起きて……。

実はルイ16世が処刑された後も、彼の身内は生存していました。長男は幼いころに病気で亡くなっていますが、次男のルイ・シャルルは王党派(君主制支持派)によって「王位についた」とみなされ、ルイ17世を名乗っています。

しかしルイ17世は、1795年、玉座につくことなくわずか10歳で死去。そのあとに「ルイ18世」を名乗ったのは、ルイ16世の弟。ルイと名乗る前は「プロヴァンス伯爵」と名乗っていました。

フランス革命勃発!外国へ亡命し「ルイ18世」と名乗る

だいぶ話が長くなってしまいましたが、ルイ18世(在位:1814年~1815年/1815年~1824年)はルイ16世の弟であり、あのヴェルサイユ宮殿でこの世に生まれます。

ルイ16世がまだ存命だったころはプロヴァンス伯という名前で通っていました。

子供のころは、王位を継ぐことが約束されている兄より「自分のほうが優秀だ」と周囲に話していたそうです。実際、なかなか秀才だったといわれていますが、いかんせんこの時代、その能力を発揮する機会はありませんでした。

なので、口先だけだったのか、本当に能力があったのか検証のしようがない、というのが正直なところです。

当時の多くの有力貴族たちと同じように、妾を何人か囲って宮殿でぜいたくな暮らしをし、芸術家たちを招いて文化芸術に触れ、優雅な時間を過ごしていました。

1789年、バスティーユ牢獄が襲撃され、フランス革命が現実のものとなると、彼らの生活も一転します。1791年にルイ16世とマリー・アントワネットとその子供たちが国外逃亡を試みたとき、プロヴァンス伯も国外へ。ベルギーやドイツ、現在のラトビア付近にもしばらく滞在していたようです。

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