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革命~復古王政・激動の時代を生きたフランス国王「ルイ18世」の生涯をわかりやすく解説

ナポレオーン助けてくれよーと手紙を出すが無視される

プロヴァンス伯(のちのルイ18世)は数年間フランスを離れ、亡命生活を余儀なくされていました。

この時期のプロヴァンス伯の生活について記した資料は少ないですが、フランス王座に返り咲くという野望は失っていませんでした。

ヨーロッパ国内の王家や有力貴族に援助の打診をしたり、フランス国内の王党派と連絡を取り合ったり、あちこち目を配っていたようです。

そして1795年、甥っ子にあたルイ17世がこの世を去ったことを知ると、自ら「ルイ18世」と名乗ると宣言。まだフランスに帰ることはできませんが、放浪を続けながら機を見ていたのかもしれません。

その頃、フランス国内で影響力を持ち始めていたのが、英雄ナポレオン・ボナパルトでした。革命によって人民の国になったと思われたフランスですが、混乱に次ぐ混乱で、フランスは結果的に、一人の英雄に行く末を託してしまったのです。

1799年、ルイ18世はナポレオンに、ブルボン王朝復活(王政復古)の手伝いを依頼するような手紙を送ったと言われています。

ルイ18世から見れば、ナポレオンは自国の国民であり、目下の人間。もしかしたら「世が王位につくための手助けをさせてやる」みたいな書き方をしたのかもしれません。ただ、この後、特に何も起きなかったようなので、ナポレオンは鼻にもかけなかったようです。まあそれもそのはず、ナポレオンは1804年、自ら皇帝になっています。

ルイ18世の生涯(2):ブルボン復古王政とその後

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フランス革命後、国外を転々とする放浪生活を送りながらも「ルイ」の名を使用し、王政復古を夢見ていたルイ18世。金糸の刺繍織物で作った紋章旗を掲げる日は、広大な庭園と1000を超える部屋を持った大宮殿で暮らす日は、美しい調度品で装飾された寝室でゆっくりと眠る日は、フランスに帰国できる日は訪れるのでしょうか。歴史は大きくうねるようにゆっくりと動き始めていました。ルイ18世のその後について見ていきましょう。

ナポレオンの敗退とブルボン王朝の復活

ルイ18世の亡命生活には、妃のマリー・ジョゼフィーヌも同行していました。

サルディーニャ(18世紀から19世紀頃までイタリアとフランスの国境付近にあった国)の王女だったマリー・ジョゼフィーヌがフランスに嫁いできたのは1771年のことで、フランス国王の弟の妻として何不自由ない暮らしを送る予定だったはずです。

それが突然の国外逃亡。受け入れ先を転々としながら、辛い日々を送っていたものと推測されます。

日本の戦国武将の妻なら、夫を支え、内助の功を発揮するところかもしれませんが、現実にはそう簡単なことでもありません。逃亡中のマリーの様子を知る資料は少ないようですので、おそらく夫婦仲は良くも悪くもなかったのでしょう。

逃亡先を追い出されたりしながら、1807年、ルイ18世はイギリス王太子ジョージ(ジョージ4世)の支援を受け、イギリスに移り住みます。1810年、マリーは再びフランスの地を踏むことなく、イギリスで死去するのです。

さて、そうこうしているうちにフランスでは、絶対王者だと思われていたナポレオン政権に陰りが見えてきます。1812年、ロシア遠征で多くの兵を失い、パリ市内でクーデターが勃発。翌年のライプツィヒの戦いで大敗すると、ナポレオンの地位は失墜し、帝国は崩壊していくのです。

ナポレオンの失墜によって、それまで息をひそめていた王党派が復活。イギリスに潜んでいたルイ18世も立ち上がります。

苦節23年。1814年春、ルイ18世パリ入場。ナポレオンを追い出した後、対仏大同盟軍(ナポレオンと戦った周囲の国々による同盟)はフランス王政復古について協議。誰を王位につけるかいろいろ話し合ったのだそうで、最終的にブルボン朝の復活ということで落ち着きます。

ナポレオンが返り咲くと再び国外へ逃亡

フランスの人々が望んだのは「フランス人の王」であり、以前のルイ15世や16世のときのような「フランス国王」ではありませんでした。

あの革命前の王室に戻るなら、王様は要らない。それくらいの意気込みで、新しい王を迎え入れようとしていたのでしょう。

ナポレオンに失望したフランス国民。その心理をうまく利用すれば、ルイ18世の君主としての人気は高まったかも。しかし長らくフランスを離れていたルイ18世には、器用にふるまう余裕などなかったのかもしれません。

新しいフランス王となったルイ18世は、革命前に鎮座していた典型的なフランス王でした。ルイ18世からすれば、兄や祖父と同じように、ごく普通にふるまったつもりだったのでしょうが、このことでルイ18世の人気はガクッと下がります。

この空気を察知した人物がいました。イタリア・エルバ島に追放されていたナポレオンです。ルイ18世の人気がいまいちということを知ったナポレオンは1815年、パリに舞い戻ってきます。

人々は次々とナポレオン側に寝返り、ルイ18世は再び国外へ逃亡。なんとも世知辛い世の中。また逃亡生活の始まりです。フランスは再び、ナポレオンの天下となります。

2度目の復古王政を果たすも王様の器じゃない?

しかしさすがに、今度のナポレオン政権はそう長くは続きませんでした。

世にいう「百日天下」。この間、ナポレオンはかつて自分を裏切った人物を追放したり、自分に有利な議会を編成し憲法を修正したりと精力的に動きますが、この状況を隣国が見過ごすはずはありません。イギリスやオーストリア、ロシア、オランダなどの国々が立ち上がり、ヨーロッパはまたまた戦場に。敗北したナポレオンはセントヘレナ島へ流され、今度こそナポレオン政権は消滅することになるのです。

ナポレオンがいなくなったことで、ルイ18世は再びフランスに戻ってきます。今度はうまくやってほしいものです。

戻ってからのルイ18世の政治は、比較的自由が認められたおおらかなものだったと言われています。

しかし、これで平和におさまるほど、フランスが抱える事情は単純ではありません。ナポレオン時代の記憶が深く刻まれたフランス。貴族たちの中には、革命以前の様々な特権や待遇の回復を望む者が大勢いたのです。

こうした「国王より王党派」な貴族や聖職者たちは「超王党派」「ユルトラ」などと呼ばれ、過激な行動に出る者もありました。ルイ18世は次第にユルトラの言いなりになっていきます。

1824年、ルイ18世死去。68歳の生涯を閉じます。後継には弟のシャルル10世が即位。シャルル10世はルイ14世や15世のときのような絶対王政の復活を掲げ、この政治体制が1830年の七月革命を引き起こすきっかけになったと言われています。

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