フランスブルボン朝ヨーロッパの歴史

絶対王政を確立したのになぜか影が薄い「ルイ13世」このフランス国王をわかりやすく解説

「ルイ」と聞くと、フランスの王様の名前をイメージする人が多いと思います。太陽王と呼ばれ絶対的な権力を誇った「ルイ14世」や、マリー・アントワネットの夫でありフランス革命で非業の死を遂げた「ルイ16世」などが有名ですが、そもそも「ルイ」とはフランスによくある男性の名前なのだそう。フランス王や貴族には「ルイ〇〇」という名前の人が数多く存在します。今回の記事では、そんな中から「ルイ13世」に着目。名前から想像できるように、太陽王「ルイ14世」のお父さん。若干影が薄い感じもしますが、ブルボン王朝の礎を築いた王様として有名。どんな王様だったのか、その生涯に迫ります。

幼くして王位継承・ルイ13世の生涯とは

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「ルイ13世」と聞いてもピンとこなくても、「枢機卿リシュリュー」という名前ならわかる、という方も多いのではないでしょうか。アレクサンドル・デュマの人気小説『三銃士』は、ルイ13世統治時代が舞台となっています。『三銃士』は何度も小説や映画になっているので、あの時代の王様だと分かればイメージしやすいはず。なんとなく世界観がつかめたところで、さっそく、ルイ13世の生い立ちや功績について、詳しく見ていきましょう。

9歳で王位継承!激動の時代に生まれたルイ13世

ルイ13世は1601年9月、フランス国王・アンリ4世と王妃マリー・ド・メディシスの長男として誕生します。

アンリ4世とは、フランス・ブルボン朝を創始した王であり、現代フランスでも大変人気が高い人物。当時のフランスは、隣国との争いはもとより国内の争いも激化しており、特にカトリックとプロテスタントの争い(ユグノー戦争)が国益に大きな影響を及ぼしていました。

「ナントの勅令」を発してこの争いを鎮め、フランス国家の再建に努めたのがアンリ4世。フランス国王としてこれからという1610年、暗殺されてしまいます。

この時、息子であるルイ13世はまだ9歳でした。

幼くしてフランス国王となったルイ13世。政務など行えるわけもありません。当面は母マリー・ド・メディシスが政務を代行することになります。

「ナントの勅令」により平穏を取り戻したフランスではありましたが、宗教に関する問題は根が深く、ルイ13世の時代になってもあちこちに火種は残っていました。

母マリーは重臣たちとともに政務にあたっていましたが、国王が幼いことをよいことに発言力を強める貴族たちも皆無ではありません。母マリーは内乱を鎮める代わりに貴族たちの要求を受け、1614年、三部会(聖職者・貴族・平民の三身分の代表者から構成される身分制議会)を招集しています。

宰相リシュリューの台頭と絶対王政

9歳で即位したときは、まだ母親が政務を代行していましたが、成長するにつれ、ルイ13世は自分自身で政務を行いたいと考えるようになります。

そして次第に、母マリーを遠ざけるようになったのだそうです。

1615年、ルイ13世はスペイン王フェリペ3世の娘・アンヌ・ドートリッシュと結婚。夫婦仲は良好とは言えず、長い間子宝には恵まれませんでしたが、結婚20年以上経過してから、のちの太陽王ルイ14世やオルレアン公フィリップ1世を授かります。

徐々に国王としての自覚に目覚め始めるルイ13世。1617年、母側の重臣たちを退け、母をブロワ城という城に閉じ込めるというクーデター勃発。母との間に決定的な溝ができてしまいます。

フランス宮廷は一時、国王派と母后派に分かれて争いが起きることもあったのだそうです。

この両者の争いの仲介役として力を発揮したのが、聖職者であったリシュリューでした。

親子の対立が決定的となったのは1618年に始まった三十年戦争(ドイツを中心にヨーロッパ全域に発展した宗教・政治戦争)だったといわれています。

カトリックとプロテスタントの争いが根幹となっているこの戦争、フランスはどちらにつくべきか、そもそも参戦すべきなのか……。ルイ13世と母マリーの意見は対立。最終的にルイ13世はリシュリューの助言を聞き入れ、母を再び幽閉してしまうのです。

いろいろやってます!ルイ13世の内部政策

ルイ13世は1624年、リシュリューを宰相に任命しています。

小説『三銃士』の影響もあり、若き国王に取り入った権力の亡者というイメージが付きまとうリシュリュー宰相ですが、実際のリシュリューは国王に尽くし、フランスのために働いた功労者でした。

リシュリューの働きもあって、ルイ13世は国王中心の政治・絶対君主を確固たるものにします。

三十年戦争は続いており、国外政策も重要ではありましたが、リシュリューは国内政策にも重点を置いていました。

国王を絶対君主とする強いフランス。その体制強化のため、貴族にも一部税金をかけ、王室の財源確保と同時に貴族たちの力を削ごうとします。

さらに軍事力を強め、強いフランスを形成。三十年戦争などの影響でいつ他国と戦争になるかわからない国際情勢の中、国王がいかに頼りになるか国民に知らしめることに成功したのです。

母の重臣であった貴族たちがリシュリューの失脚に動いたこともありましたが、ルイ13世のリシュリューへの信頼は厚く、リシュリューが職を退くことはありませんでした。

三十年戦争への参戦と王妃の涙

1618年、プロテスタントとカトリックの対立から始まった三十年戦争。ユグノー戦争もそうですが、プロテスタントとカトリックの争いはこれまでも幾度となく繰り返されてきました。三十年戦争はその中でも最大といわれるもの。1648年まで、実に30年もの間続きました。

はじめはベーメンという地域で始まった争いでしたが、神聖ローマ帝国、スペイン、デンマーク、スウェーデンなども次々参戦。ヨーロッパ全土を巻き込む大戦争となってしまいます。

ルイ13世はもともと、熱心なカトリック信者でした。そのため、当初はカトリック側のローマ皇帝を支持していましたが、年数が経つと状況に変化が。長年対立関係にあったハプスブルグ家の勢力を弱めるチャンスだと見て、一転、プロテスタント側のスウェーデンを支援し始めたのです。

もはや宗教戦争ではなく、政治戦争。結果、フランスはハプスブルグ家を退け、領地を拡大することに成功します。

これで苦しい立場に立たされたのが、ルイ13世の王妃アンヌでした。彼女はスペイン出身。ハプスブルグ家の血をひいています。さらに弟は現スペイン王。夫がプロテスタント側についたことで王妃は悲しみに暮れたと伝わっています。

政治的には大きな功績につながりましたが、母を切り捨て、妻を苦しめることとなった三十年戦争。そんな戦争の行く末を見ることなく、1643年にルイ13世はこの世を去ります。

このとき、息子ルイ14世はまだ4歳でした。

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