ヨーロッパの歴史

古代地中海交易の民「フェニキア人」とは?わかりやすく解説

地中海を中心とした古代西洋の歴史に関する資料を見ていると、頻繁に「フェニキア人」という単語を目にします。フェニキアという帝国があったわけでも、大陸や島があったわけでもなく、ただ単に「フェニキア人」と記されている、神出鬼没の謎めいた人々。でも彼らは確実に存在し、古代だけでなく現代社会にも大きな影響を与えているといわれています。一体どんな存在だったのでしょうか。紀元前1200年頃に地中海で活躍したとされるフェニキア人。この記事ではそんなフェニキア人にスポットをあてていこうと思います。

大海原を自在に!海洋文明を開いたフェニキア人

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地中海と一口に言っても、その範囲は広大。ギリシャを中心とした西欧地域のほかに、エジプトやリビアなど北アフリカ地域や、中東・西アジア地域も地中海に面しています。紀元前数千年前~9世紀頃までは、沿岸には数多くの民族の生活圏が点在していましたが、海を介して相互に密接な関りがあり「地中海」というひとつの世界を形成していました。そんな地中海に突如現れ、手広く活動していたフェニキア人。どんな歴史を持っているのか、詳しく見ていきましょう。

地中海世界とは?フェニキア人が現れるまでの経緯をおさらい

少なくとも紀元前6千年頃には、北アフリカ側にはいくつかの集落や都市が形成され、農業を中心とした生活を送っていたものと考えられています。

紀元前3000年頃にはエジプトに巨大帝国が誕生。さらに紀元前2000年頃、現在のトルコ周辺にヒッタイトと呼ばれる民族が現れ、国を築きます。

エジプトとヒッタイト。絶大な勢力を持つ巨大帝国が覇権を争いあう地中海東岸地域。温暖で海の恵み豊かな地中海沿岸には、この二大大国のほかにもたくさんの民族や集落が存在していたと考えられています。また、ギリシャ半島にもすでに高度な文明を持つ都市が点在していました。

地中海世界では古くから、移動手段として海路を使うことが多かったようです。入り組んだ海岸沿いや隆起の多い陸地部分を移動するより、船で海を渡るほうが自然だったのかもしれません。エジプト、ギリシャ、中東。一見離れて見えるこれらの地域は、地中海という海によって、古い時代から強いつながりを持っていたのです。この構図は、文化や物資の交易だけでなく、激しい戦争にもなりえるものでした。

海を制する者が世界を制する。古代の地中海とはそんな世界だったのでしょう。

二大帝国の衰退と海を翔けるフェニキア人の台頭

エジプトとヒッタイトという巨大国家が勢力を保ち、ギリシャ半島にギリシャの都市国家が次々と誕生。そんな中、時にそれら巨大勢力の支配を受けながら、小さな民族や組織も徐々に力をつけつつありました。

そのひとつがフェニキア人です。彼らは紀元前1500年頃には、地中海の東海岸(現在のシリアやレバノンのあたり)に拠点を置き定住。長い年月をかけ、海洋貿易を武器に勢力を拡大していったと考えられています。

紀元前1200年頃、エジプトとヒッタイトの二大勢力が衰退。理由は様々で不明な点も多いですが「海の民」と呼ばれる謎めいた海洋集団の侵攻や内乱などから衰えていったものと考えられています。ヒッタイトは滅亡、エジプトは滅亡後にエジプト末期王朝が成立し、地中海世界は新たな局面を迎えることとなりました。

今まで二大勢力に押さえつけられていた民族や集団が自立し、解き放たれたように海洋貿易が盛んにおこなわれるようになります。長い支配から解放されたフェニキア人たちも、海を巧みに利用し、海洋民族としての地位を確立。物資だけでなく、古代オリエントの様々な文化文明を地中海全域に運んでいきます。

海こそが我が家!フェニキア人たちの歴史とは

では、フェニキア人とはどんな民族だったのでしょうか。

フェニキア人たちは、自分たちのことを「私たちはフェニキア人です」と名乗っていたわけではないようです。「フェニキア(英:Phoenicia)」とは、当時のギリシア人が、彼らのような東側から交易目的でやってきた人々のことを呼ぶときに使う総称だったと考えられています。

「フェニキア」語源についても諸説あり。地中海とヨルダン川、死海に挟まれた地域の古い呼称「カナン」がもとになっているという見方もあるのだそうです。

とにかく彼らは、地中海の東側の海岸沿いにアドラス、ティルス、シドン、ベリュトスといった都市を次々と形成し、周辺地域でとれる木材を使用して船を作っては海に乗り出していました。

フェニキア人たちの交易の舞台は主に北アフリカ。カルタゴ(現在のチュニジア・イタリアの”つま先”に近い半島に位置していた古代都市)など海上の要衝をしっかりと繋ぎ、遠くイベリア半島(スペインやポルトガルがある半島)まで網羅していました。

紀元前8世紀~6世紀頃になると、陸上では、彼らが拠点としていた地中海東岸一帯をアッシリアやペルシア帝国などの新勢力が侵攻し制圧。多くのフェニキア都市はその支配下に入りますが、フェニキア人たちはその後も海洋貿易を続けていました。

しかしその力にも徐々に陰りか。紀元前4世紀頃には、イベリア半島や北アフリカ沿岸も含め、地中海沿岸の広い範囲を共和政ローマが制圧し始めます。フェニキア人たちの拠点は次々と奪われ、しまいにはカルタゴだけとなってしまったのです。

カルタゴは最後の最後まで抵抗をつづけましたが、紀元前2世紀頃にはローマ軍に制圧されてしまいます。100年以上にもわたるこの戦争は「ポエニ戦争」と呼ばれていますが、これは、ローマ人たちがフェニキア人を「ポエニ」と呼んでいたことからついた名称なのだそうです。

紀元前1世紀頃には、地中海世界はローマ帝国1色に。フェニキア人たちは消滅していきました。

何がすごいの?フェニキア人たちが遺したものとは

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紀元前1500年頃から1000年以上もの間、地中海の海上で活躍し続けたフェニキア人。陸上の都市国家が他国に制圧され吸収された後でも、海洋を駆け巡って交易を続けていた彼らは、現代につながる大変重要なものをもたらしたといわれています。フェニキア人がもたらしたものについて、もう少し詳しく見ていきましょう。

フェニキア人のここがスゴイ(1)類まれな交易術

まだ地図もなく、文字による記録術も十分でない時代に、フェニキア人たちは地中海沿岸都市を船で行き来し、交易を行っていました。

フェニキア人によって築かれた都市のひとつ・ティルス(現在のレバノンの南西部)は、フェニキアの中心都市としてだけでなく、エジプト、アラビア半島、メソポタミア地域など各方面を陸路・海路を結ぶ交通の要衝として機能していたのです。

ここを拠点に、フェニキア人たちは各地域の特産品を別の地域へ広めていきます。

例えば染料。フェニキア人たちが暮らす地域の特産品に、貝から採取する紫色の染料がありました。美しい色合いに染めることができるこの染料は珍重され、高値で取引されたと伝わっています。

ある地域の特産品を別の地域で売れば高値で売れ、利益になる。今から3000年以上も前に、フェニキア人たちは地中海沿岸の町を船で行き来し、莫大な富を築いていきました。

このフェニキア人たちの活動に欠かせないのが高度な航海を可能にする船。単に波や風に流されるだけでなく、時に人力で漕いで効率よく後悔することができる船を作り、より早く物資を運ぶことができるよう工夫していたのです。

フェニキア人のここがスゴイ(2)アルファベットの普及

各地域を船で渡り歩くフェニキア人。当然ですが行先は、自分たちの言葉が通じる地域ばかりではありません。

フェニキア人はもともと、様々な民族が入り混じって形成された民族だったと考えられています。

言語の系統としては「セム語派」という西アジア、北アフリカ地域に分布するグループに属すると考えられていますが、貿易を潤滑に行うため、様々な言語や文字に対応していったようです。

そして、フェニキア人たちは、どの地域でも使える文字を発明します。フェニキア文字です。

古代文明においては、エジプトの象形文字が有名ですが、こうした文字は絵から発展したものが多く、ひとつの文字の形に意味が込められているものが多い。しかしフェニキア文字は、1文字1文字には特に意味はなく、形もシンプルです。その代わり、文字はそれぞれ「音」を持っています。

これこそ、現代のアルファベット文字の原型です。

このような文字体系は、フェニキア人が進出するより以前から、カナン地域にあったものと考えられています。この文字体系をフェニキア人たちが改良・工夫し、異なる文化圏の地域でも誤解なく物事が伝わるよう、しっかりとしたシステムを作り上げたのです。

このフェニキア文字は、フェニキア人たちが歴史舞台から姿を消した後も、ギリシャ人やローマ人たちによって受け継がれ、ラテン語、そして現代のアルファベット体系へと進化していきました。

「異なる地域の人々と効率よく交易を行いたい」

そんなフェニキア人たちの強い思いが、アルファベット形成の礎を築いたのかもしれません。

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