ヨーロッパの歴史

「パリ条約」は1763年?1883年?数あるパリ条約をわかりやすく解説

世界史関連の書物を読んでいると、たびたび「○○条約」という単語を目にします。条約とは大まかに、争いの終結であったり、貿易や外交、環境などに関する取り決めなど、国同士で文書を取り交わし合意することを指しますが、○○の部分には主に、条約が取り交わされた地名や都市名が入ることが多いようです。過去、条約が取り交わされてきた都市といえば、フランスの首都・パリではないでしょうか。実は「パリ条約」と呼ばれる条約は50以上も存在しているのだとか。そこで今回の記事では、数ある「パリ条約」の中でも特に有名なものをいくつか取り上げて解説してまいります。

パリ条約 (1763年)~ヨーロッパ七年戦争の講和条約

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「パリ条約」といって真っ先に挙げられる条約は、やはり1763年の講和条約でしょう。イギリス、フランス、スペインという、当時のヨーロッパで主導権を争う大国三国の間で締結されたもので、その後のヨーロッパ各国の力関係に大きな影響を与えた条約とも言われています。いったいどんな時代背景があったのか、順を追って見ていきましょう。

七年戦争とは?北アメリカやインドでの覇権争い

七年戦争とは、1756年から1763年にかけてヨーロッパで起きた戦争のことです。

ヨーロッパといえば古くから、大国がせめぎ合いを続けてきた地域。争いの火種はあちこちにあり、それらが18世紀半ばに一気に火を噴いた、と考えてよいかもしれません。

数ある火種の中で、最も大きなものが「オーストリアの継承問題」であり、ここに「イギリス・フランスの植民地闘争」が深く絡んで大きな戦争へと発展していったと考えられています。

このうち「パリ条約」へと結びついていくのはイギリスとフランスの争いですが、オーストリアでの騒動が、英仏両国の対立構図が浮かび上がらせるきっかけとなりました。

オーストリアといえば、かの女帝・マリア=テレジア率いるハプスブルク家を思い浮かべる人も多いでしょう。そのハプスブルク家の家督継承でオーストラリアが揺れ動きます。マリア=テレジアが家督を継ぐことで一旦は収拾しますが、ハプスブルク家の台頭をよく思わない諸外国の動きもあり、次第に争いへと発展。

そしてこの頃のヨーロッパは、ヨーロッパ大陸だけでなく大海原の向こうにも領地を広げていました。アメリカ大陸やインドなどが主な舞台です。

17世紀後半から18世紀にかけては、大航海時代を牽引してきたスペインやポルトガル、オランダなどの国々の力が弱まり、フランス・イギリスが植民地獲得で争う時代になっていきます。

この2つの対立関係を主軸とした戦争が七年戦争です。ヨーロッパではオーストリアとプロイセンが、インドや北アメリカではフランスとイギリスが植民地を巡って争い合います(フレンチ・インディアン戦争)。

講和条約の内容-イギリスとフランスの力関係

一進一退、終わりの見えない戦争は、各国の疲弊を招きました。オーストリアはひどい財政難に陥り弱体しプロイセンに敗退。プロイセンはオーストリアを始めとする大国に勝利したことで、ヨーロッパ列強国の仲間入りを果たします。

一方、ヨーロッパの外での植民地争いではイギリスがフランスに勝利。インド、アメリカ、フィリピン、アフリカなど各地でイギリスは広大な土地を確保し、フランスは撤退を余儀なくされます。

そして1763年2月10日、イギリス、フランスとスペインの間で講和条約が結ばれ、七年戦争は終わりを告げました。これがいわゆる「1763年のパリ条約」です。

条約の内容は、イギリスに優位なものでした。

イギリスはフランスから、カナダやルイジアナ東部などの土地を取得。スペインからはフロリダを獲得します。

さらにイギリスは、インドやアフリカ、地中海の島などの領地獲得または優越権を与えられ、それまで争っていたフランスに大きく差をつけることとなるのです。

フランスにとっては、敗戦に加え領地を多数奪われるなど、屈辱的な内容となってしまいます。「太陽王」と称されたルイ14世が統治していた時代から一転、面目丸つぶれの借金大国に。この後も、イギリスとの対立を意識したのかアメリカ独立戦争への参戦など出費がかさむ出来事が続き、フランス国民の怒りが爆発。フランス革命へ突入していくことになるのです。

パリ条約(1814年・1815年)~ナポレオン時代の終結

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フランスの首都パリで結ばれた条約をすべて「パリ条約」と呼ぶなら、1763年より前にも後にも数多くの「パリ条約」がパリ市内で結ばれたことになります。七年戦争で多くを失ったフランスですが、その後も近隣の列強国との軋轢は続き、そのたびにパリで条約締結のための会議が、多いときはほぼ1年刻みで行われていたようです。フランス革命でさらなる打撃を受けたフランスの窮地を救ったかに見えた英雄・ナポレオンも最期は失脚。この時もパリは、フランスにとって芳しくない条約締結の場となってしまいます。

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