日本の歴史明治江戸時代

北海道開拓で大きな役割を果たした「開拓使」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

札幌市厚別区の上野幌にある北海道開拓の村は明治時代の北海道開拓のころに建てられた建造物が再現された施設。外観復元された建物の一つに、1873年から1879年まで使用された旧開拓使札幌本庁舎があります。今見ても非常にモダンな建物で、文明開化の雰囲気を今に伝えていますね。今回は、江戸時代の蝦夷地(北海道)の簡単な歴史と、明治初期に北海道開拓を担った開拓使について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

江戸時代の蝦夷地

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開拓使が設置される前、北海道は蝦夷地と呼ばれていました。江戸時代に蝦夷とはアイヌ民族を指す言葉です。北海道は文字通り、アイヌ民族の居住地でした。その蝦夷地を支配したのが松前藩です。しかし、松前藩は石高1万石相当の小さな藩だったので、18世紀後半以降に強まったロシアなどからの外圧を防ぐ力はありません。幕府は蝦夷地を直轄し、外圧に対処しようとしました。戊辰戦争がはじまると、旧幕府艦隊が箱館を占領。新政府と箱館戦争をおこないます。

松前藩の支配と場所請負制度

室町時代、東北北部から渡島半島に移住した人々は道南十二館をつくり、アイヌ民族との交易をおこないます。1457年におきた和人(日本人移民)とアイヌ民族の戦いであるコシャマインの戦いに勝利した武田信広の子孫は、道南に松前藩を成立させました。

徳川家康は松前慶広に蝦夷地のアイヌ民族との交易独占権を与えます。松前藩は交易の権利を家臣たちに与えました。やがて、家臣たちは本州の商人たちに交易圏を貸し与え、漁場の経営も任せます。

商人たちは交易や漁場経営で上げた利益の一部を藩や上級藩士に納めました。これが、場所請負制度です。場所請負制度は日本人にとってかなり有利な仕組みで、アイヌ民族は徐々に場所の労働力にされていきます。

アイヌ民族と松前藩が争うこともありましたが、松前藩はアイヌ民族の抵抗を鎮圧し蝦夷地の統治を続けました。

外圧の強まりによる、幕府の蝦夷地直轄

18世紀後半、ヨーロッパ諸国の船が日本近海に出没するようになりました。1792年、ロシア使節ラクスマンは蝦夷地の根室に来航。日本に対し、通商を要求しました。幕府はラクスマンの要求を拒否します。

1804年、ロシア使節レザノフが長崎に現れ、再び日本に対し通商を要求しました。幕府はこの時もロシアの要求を拒否します。レザノフはラクスマンのように黙って帰国しません。

日本を開国させるには武力行使しかないと考えたレザノフは部下のフヴォストフに樺太の久春古丹を襲撃しました。

江戸幕府は松前藩だけで蝦夷地を防備するのは困難だと考えるようになります。1799年、幕府は東蝦夷地を直轄化。1807年に蝦夷地全土を直轄化しました。その後、対外関係の緩和により蝦夷地を松前藩に返します

箱館(はこだて)戦争

1854年、幕府はペリーの要求に応じ日米和親条約を締結。蝦夷地の箱館を開港地としました。幕府は箱館奉行を設置し、交易の管理をおこないます。

1866年、幕府は箱館の防備強化のため五稜郭を築城しました。五稜郭は西洋式城郭で砲撃戦に対応した星型の要塞です。

1868年、江戸の品川沖を脱走した榎本武揚率いる旧幕府艦隊は、東北で奥羽越列藩同盟の敗残兵などと合流。その兵力をもって蝦夷地・五稜郭を占領しました。榎本らは蝦夷地を旧幕臣で開拓したいと新政府に申し出ますが新政府は却下。箱館戦争が始まりました。

1869年4月、新政府軍は蝦夷地に上陸。旧幕府軍と道南各所で激しく戦い、旧幕府軍を函館に追い詰めました。旧幕府軍は土方歳三らを中心に激しく抵抗します。

しかし、箱館湾海戦で敗れ制海権を失ってからは新政府軍の圧倒的優位となり、1869年6月末に降伏。箱館を含む蝦夷地は新政府の支配下に入りました。

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