日本の歴史明治江戸時代

北海道開拓で大きな役割を果たした「開拓使」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

開拓使による北海道開発

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箱館戦争後、北方警備の必要性を考えた明治政府は北海道開拓を専門に行う官庁として開拓使を創設します。開拓使は北海道の中央部に近い石狩地方の札幌に置かれました。開拓使の事業は黒田清隆が長官となった時代に予算が増え、規模も急拡大します。屯田兵を設置し、開拓と北方防備を同時に行ったのもこの時代ですね。黒田清隆が開拓使官有物払い下げ事件で失脚してから開拓使は廃止されます。

開拓使の設置

1869年7月8日、明治政府は北方開拓を専門に行う開拓使を設置しました。開拓使は単なる地方行政機関ではなく、中央省庁の一つと位置づけられます。これは、明治政府が蝦夷地の開拓を国家主導で行い、ロシアなどの外圧を防ごうと考えたからですね。

初代の開拓使長官は佐賀藩主鍋島直正です。鍋島直正は佐賀藩を雄藩に育て上げた英主で、外圧から日本を守ることを主張しました。ロシアと国境を接する蝦夷地の開拓・防備が不可欠だと考えていたからこそ、鍋島は開拓使長官に任命されたのでしょう。

鍋島直正は蝦夷地に赴任することはありませんでしたが、財政難の明治政府にかわり開拓費用を負担。佐賀藩民の移住促進などをおこないます。鍋島の退任後、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)が二代目の開拓長官となりました。

札幌の都市計画を担った島義勇

島義勇は幕末に活躍した佐賀藩士です。藩主鍋島直正が開拓使長官に任じられたため、島は開拓判官に任命され、北海道に移り住みました。島が開拓判官に任命されたのは、1856年から1857年にかけて、箱館奉行の配下として蝦夷地や樺太を探検した実績があったからです。

1869年10月12日、島は現在の小樽市銭函に開拓使仮役所を開設しました。当時、開拓使が置かれていた函館は北海道の中で南に偏りすぎていたため、より北海道の中央部に近い場所に開拓使を移そうと考えていたからです。

その後、島は開拓使の設置場所を現在の札幌市に定めました。島はほとんど人が住んでいなかった札幌を碁盤の目のように区切った整然とした都市として作り上げようとします。そのためには、多額の費用が必要でした。

また、島は江戸時代から行われていた場所請負制度の廃止を通告します。ところが、既得権を失うことを恐れた場所持ちの商人たちは函館の開拓使に訴え、島の通達を無効にしました。さらに、札幌開拓の費用が巨額だったことなどで東久世長官と対立した島は志半ばで辞任しました。

黒田清隆の開拓使長官就任

北方警備の必要を強く感じていた明治政府は、薩摩閥の有力者である黒田清隆を開拓次官に任じます。黒田の担当はロシアと国境を接する樺太(サハリン)と決まりました。樺太を視察した黒田は、日本が劣勢である現状を把握。樺太を維持するためにも、政府が北海道開拓を主導するべきと主張します。

黒田は樺太だけではなく、北海道全体を管轄する開拓次官となり明治政府から10年間の開拓予算1000万円を獲得しました。黒田はお雇い外国人としてアメリカからケプロンを招聘。農業開拓にも取り組みます。

他にも札幌農学校の設立や「Boys be ambitious」でしられるクラーク博士を招くなど北海道教育の礎も築きました。また、鉄道建設や鉱山開発、ビールや葡萄酒、缶詰の生産など現代北海道産業の土台となる官営事業も始められます。

屯田兵制度

北海道開拓とならんで、北方の防衛も重要事項でした。そこで、開拓使は農業開発を行いながら、北方警備に従事する開拓者兼北海道警備を担う屯田兵(とんでんへい)の制度を開始します。

屯田兵は開拓使がおかれた札幌周辺の石狩地方で始まりました。現在でも、札幌市の北区に屯田という地名が残されています。この土地には1889年に熊本・福岡・徳島・山口・和歌山・福井・石川の7県の士族が屯田兵として入植したため、屯田の名が現在まで残されました。

屯田兵として北海道開拓に従事した士族たちは、西南戦争のときに政府軍の一員として動員されました。開拓使廃止後も屯田兵は拡大。札幌周辺だけではなく上川地方や空知地方にも屯田兵が配置されました。屯田兵は1904年に廃止されるまで、北海道防衛の一翼を担います。

開拓使官有物払い下げ事件

黒田は明治政府から引き出した巨額の予算を投じ、北海道で数々の事業を起こしました。1881年、政府は開拓使の廃止を決定。黒田はこれまでの事業の受け皿をつくるため、開拓使の官吏を退職させ、北海社という新会社を起こさせます。黒田は新会社に開拓使の事業を払い下げようとしました。

しかし、新会社には十分な資金がありません。そこで、黒田は同郷の政商五代友厚が経営する関西貿易会社が払い下げを受け、それから新会社が事業を運営するようにしました。払い下げの金額は39万円。事業を起こすために開拓使が使った1400万円のわずか35分の1という破格の安さでした。

1882年7月、払い下げの計画が新聞で暴露されても黒田は方針をかえず、強引に明治天皇の許可を得て払い下げを強行します。世論は黒田のやり方は横暴だとして政府を激しく批判しました。政府は黒田を開拓使からはずし、払い下げを中止します。これが、開拓使官有物払い下げ事件ですね。

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