水俣病の背景
第二次世界大戦終結後、焼け野原となった日本は経済の復興を目指します。1950年の朝鮮戦争による好景気で息を吹き返した日本経済は重化学工業分野での生産も回復。空前の高成長を達成する高度経済成長の時代を迎えました。その一方、企業利益が優先され環境破壊が進みました。
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戦後の高度経済成長
敗戦から復興するきっかけとなったのは1950年の朝鮮戦争です。アメリカ軍は戦争に必要な物資を日本から大量に購入。これにより特需景気がおきました。特需景気がひと段落ついてすぐの1955年、のちに神武景気とよばれる好景気が始まります。
こうした好景気により1950年代には戦前の水準を回復、さらに成長しました。途中、何度かの小さな不況はありましたが岩戸景気・オリンピック景気・いざなぎ景気と好景気が連続します。このころ、日本の実質経済成長率は年10%を超えていました。
この間、1964年の東京オリンピックの開催や新幹線の開通、名神高速道路の開通など現代にもつながる大規模事業が次々と進められます。好景気に沸く日本列島でしたが、このころ各地で公害が発生。しだいに人々の生活をむしばんでいきました。
チッソ水俣工場の建設
チッソは明治時代に鹿児島県につくられた企業です。もともとは水力発電などを手掛けていました。やがて、鹿児島県に隣接する熊本県水俣市に化学肥料を生産する工場を建設します。これが、のちに水俣病の原因となる水銀を排出する工場となりました。
チッソは化学肥料や酢酸、塩化ビニール成形などに必要な可塑剤生産で日本経済を支えました。水俣はチッソ関連の工場建設により熊本県内有数の工業都市となります。
その一方、チッソの工場による水質汚染は大正時代から見られていました。チッソは1932年から酢酸や可塑剤の生産に必要なアセトアルデヒドの生産を開始。その時に発生する副産物のメチル水銀はほとんど無処理のまま八代海に流されました。このことが、水俣病の原因となります。
水俣病の発生
1956年(昭和31年)、水俣市の月浦地区に住む女性が手足のしびれ、口がきけない、食事ができないなどの重篤な症状を訴えてチッソ水俣工場附属病院に入院しました。これが、水俣病の「公式確認」です。しかし、水俣ではそれ以前から様々な異変が起きていました。水俣病発生の経緯についてみてみましょう。
水俣病発生前の兆候
チッソの工場がアセトアルデヒドを生産して以降、水俣湾では異変が起きていました。太平洋戦争中の1942年、水俣市月浦で当時4歳の子供が水俣病の症状を発症していました。
戦争が終わったあとの1949年ころには水俣湾でタイやエビ、イワシ、タコなどの漁獲量が激減。1952年ころになると猫やカラスなどの原因不明の死亡例が多発しました。1953年になると水俣湾内で魚が浮き上がったり、海鳥やカラスが落下する現象がみられるようになります。
最も顕著に症状が出たのが猫でした。猫が自分の姿勢を保つことができず、よだれを流すなどの症状が見られたのです。このことから、当時は「猫踊り病」などと言われていました。このことが、1954年8月1日付の熊本日日新聞で掲載されます。同じころ、水俣湾周辺の住民にも異変が起きていました。
水俣病の発生と原因の特定
水俣病の公式確認は1956年ですが、それ以前から住民の体調不良が相次いでいました。住民が訴えた症状は手足のしびれ、ふるえ、視野狭窄、難聴、運動失調などです。住民の中には体を動かすことができなくなり、寝たきり状態になるものや意識を失ってそのまま死に至る人も現れます。
当初、患者の多くは沿岸の漁師の家庭から出ました。原因不明の「奇病」とされ、周囲からの差別に苦しむ人も出ます。水俣病の公式発見後、原因究明が進められました。
水俣湾でとれた魚を猫に食べさせる実験の結果、魚介類が病気の原因とはわかりましたが、原因物質の特定には至りません。工場廃液に含まれるメチル水銀が原因だと政府によって認められるのは1968年のことでした。
水俣病のしくみ
水俣病はどのようにして発生したのでしょうか。その始まりはアセトアルデヒドの生成です。この物質を作ると副産物としてメチル水銀が生まれます。メチル水銀は工場で使い道がないため、工場廃水とともに水俣湾に放出されました。
水俣湾は外海との交流が少ない内海であったためメチル水銀は外洋に散らばらず、水俣湾内で蓄積。たまったメチル水銀はそこに住んでいた魚介類が取り込みました。その魚介類を食べた大型の魚や猫・カラスなどの鳥、そして周辺の人々が水俣病を発症したのです。
メチル水銀に汚染された魚を摂取し続けると、神経症状出ます。たくさん魚を食べるほどメチル水銀は濃縮され症状は重くなりました。