教養歴史

粋でグルメ!江戸時代の人々の食事事情を大調査!

400年~200年ほど前、江戸時代の人々はどんな食事をとっていたのでしょう?冷蔵庫や電子レンジは無いし、貧しい食生活を送っていたのでは……と思いきや、けっこうグルメで美味しいものを食べていたとも言われています。現代ほど食材が豊富でないにしろ、様々な工夫を凝らして食事を楽しんでいたと思われる江戸時代の人々。そんな江戸っ子たちの食事事情、ちょっと覗いてみましょう。

100万都市・江戸の町に暮らす人々の食生活とは

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正確なところは不明なようですが、江戸時代、江戸の町には100万人もの人が暮らしていたと考えられています。同時期のパリやロンドンより遥かに多くの人が暮らしていたとされる江戸の町は、いつも多くの人が行き交い、周辺地域から多くの食材が運び込まれていました。意外な感じもしますが、江戸時代の江戸の町は水道や道路などインフラが整備されて、大変住みやすい町であったと考えられているのです。そんな江戸時代の人々の食事はどんな様子だったのでしょう。

一汁一菜・お米を食べ過ぎて「江戸わずらい」

お殿様や身分の高いお武家様は別にして、江戸の街に暮らす一般の庶民の食事といえば「一汁一菜」。ご飯と汁物、おかずが一品、というスタイルが基本でした。

品数は少ないですが、問題はご飯の量です。江戸の町の人々は、とにかくたくさんご飯を食べていました。

成人男子で1日5合ものご飯を食べていた、とも言われています。

5合!

5合炊きの炊飯器いっぱいに焚いたご飯を、ひとりでぺろり!

江戸は徳川将軍のお膝元ですから、全国から年貢米が集まります。他の都市より、お米は手に入りやすかったのでしょう。しかも江戸の町では、精米した白いお米が容易に手に入りました。江戸時代の人々は、白米をたくさん食べていたのです。

白米に比べておかずは少なめ。当然、栄養のバランスが悪くなります。

特に深刻だったのがビタミンB1不足。いわゆる「かっけ(脚気)」です。玄米や雑穀に多く含まれているビタミンB1が、白米にすると失われてしまいます。しかし当時の人々には栄養に関する知識は無く、かっけに関する対策も明確ではありませんでした。

一説には、屋台で売られていた蕎麦が、江戸の人々のビタミンB1不足を救った、とも言われています。

一日三食が定着・腹が減っては働けぬ

ご飯をたくさん食べていた江戸の人々。現代では当たり前となっている「一日三食」も、江戸時代に入ってから庶民に定着しました。

流通経路が確立し、野菜や魚など食材が手に入りやすくなったことなどから、自然と食事を取る回数も増えていったと考えられています。

また、農作物の栽培技術が向上し、お米をはじめ、様々な食料が安定して供給されるようになったことも要因のひとつ。さらに、夜でもろうそくや行灯を使って火を灯し、夜遅くまで起きている機会が増えたことも、三食しっかり食べる生活習慣が定着した理由になると言われています。

さらにもうひとつ。江戸の町には、町を築くために全国各地から集められた職人が数多く暮らしていました。職人たちは重労働に耐えるため、たくさんご飯を食べます。1日一食や二食ではお腹がすいて働けません。実際、人口のうち、男性の比率が大変高かったとも言われています。

職人たちがたくさん集められた理由のひとつが、1657年に起きた明暦の大火。この大火事で、江戸の町の半分以上が焼失してしまったのだそうです。

焼け野原になってしまった江戸の町を建て直すべく、全国各地から多くの労働者が集められました。町の建て直しのために昼夜問わず働かせるには、朝昼晩とたくさんご飯を食べさせる必要があります。一日も早い復興のため、幕府が率先して一日三食を推奨した、との見方もあるのだそうです。

外食産業大繁盛・振売り・屋台・屋台見世

全国各地から数多くの職人が集まっている江戸の町。単身者も多く、そのため、屋台や食事処など、いわゆる外食産業が発達していたのだそうです。

また、火事を恐れて、長屋など密集した住宅地での煮炊きを避ける町民も多かったといわれています。

しかしご飯はしっかり食べないと働けません。

江戸の町を建て直すために集められた職人たちは、それなりに賃金を受けていたので、外でご飯を食べることも多かったと考えられています。

そんな職人たちの空腹を満たすための店が、江戸の町のあちこちにできました。

まず手軽なところで、振売りというスタイルの商売が増えます。時代劇などでよく見る、木桶やザルを取りつけた天秤棒を担いで売り歩いている、あの人々のことです。鮮魚や干し魚、貝、納豆、豆腐、甘味など、扱うものは何でもあり。天秤棒ではなく箱やザルに握り寿司を入れて売り歩く者もいたようです。

時代が少し進むと、木炭などその場で湯を沸かし温める手段が普及し、出先で調理することができるようになります。蕎麦やおでん、魚などを売る簡易屋台のようなものが、江戸の町中のあちこちに出没するようになりました。屋台は、天秤棒の延長のような担ぎ上げることができるタイプや、もっと大型で据え置きタイプのものなど、様々な形状のものがあったと考えられています。

さらに、大きな神社仏閣の境内近くや参道に茶屋や茶店も並ぶようになって、団子や汁物などを売る店も増えていきました。

屋台では、うなぎや握り寿司、てんぷらなどを売る店も増えていきます。これらの料理は、今でこそ高級料理ですが、江戸の町中では屋台ですぐに食べることができる、せっかちな江戸っ子のためのファストフードだったのです。

江戸のグルメランキング!おかず番付に見る江戸時代の食事事情

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江戸の人々の食事の様子が何となくわかってきましたが、具体的にどんな食材を調理して食べていたのでしょうか。江戸時代の人々は、おすすめの温泉地や料理屋などを、相撲の番付表に見立ててランキング表を作って楽しんでいました。そのランキング表の中に「日々徳用倹約料理角力取組」というものがあります。いわゆる「安くておいしいおかずのレシピランキング」「おかず番付」。ランキング上位のおかずを見ながら、江戸の庶民がどんなおかずを食べていたか覗いてみましょう。

大関:(西)めざしいわし(東)八杯豆腐

番付表は、西(魚など動物系・魚介系のおかず)と、東(野菜や豆など精進料理)に分かれて掲載されています。番付のトップを飾るのは、めざしいわしと八杯豆腐です。

めざしいわしは、塩を振ったイワシを4~5匹並べ、目を串や藁紐などで刺してつなげて干したもの。イワシは栄養価も高く、今も昔も庶民のおかずの強い味方です。

八杯豆腐も江戸庶民のおかずの定番。水6、しょうゆ1、酒1の割合で混ぜた汁でお豆腐を煮たものです。とてもシンプルですが、汁の味が染みてご飯がすすみそう。めざしいわしにしても八杯豆腐にしても、ご飯をたくさん食べる江戸の人たちのおかずとして大変人気があったようです。

関脇:(西)むきみ切ぼし(東)こぶあぶらげ

西(魚介系おかず)はむきみ切ぼし。むきみとは貝のむき身のこと。貝のむき身と切干大根を煮たものなのだそうです。

一方、東(精進系おかず)はこぶあぶらげ。あぶらげとは油揚げのことで、昆布と油揚げの煮物のこと。こちらの勝負も、白米をたくさん食べるおかずとして甲乙つけがたいラインナップ。しかもヘルシーで様々な栄養をとることができそうです。

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