中華思想から見る「中国の歴史」これでもかと解説!
後漢の時代
外戚が強い権力を持つようになった前漢では外戚である王莽がついに皇帝の位を奪って前漢を滅亡に追い込みます。王莽は新しく新王朝を打ち立てましたが、その政治は周時代の政治を流用したものであり、非常に現実的なものではありませんでした。日本でいうと現在の時代に鎌倉時代の政治を導入するみたいなものです。
この結果中国は大混乱。相次ぐ貨幣の改鋳などで民衆の反感を買ってしまい赤眉の乱など漢の復興を求める反乱が起きて内乱状態に陥りました。王莽はこの混乱の中で殺害され新王朝は15年で滅亡。結局漢の皇族の血を引く劉秀(光武帝)によって漢王朝が復興され後漢が成立しました。
後漢は前漢の領土をそのまま回復させてシルクロードをおさえてローマ帝国との貿易を開始。しかし光武帝がなくなると若い皇帝が相次いで誕生していき外戚や宦官の権力の増大に悩まされるようになることになります。
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三国時代のはじまり
後漢末期の184年には、黄巾の乱と呼ばれる農民反乱がおき、そこから後漢は一気に崩れていくことになります。後漢は宦官による政治腐敗がひどく、さらには董卓の横暴によって後漢は大混乱。そのすきをついて全国各地にいた豪族が後漢の支配を受けない独自政権を立てていきました。三国時代の前半が各地の豪族がごちゃごちゃしていましたが、時代が立っていくと華北を制圧した曹操が一気に台頭。華北の肥沃な大地を手に入れた曹操は208年に赤壁の戦いで孫権と劉備に敗れたものの支配権を確立していき、曹操の跡を継いだ曹丕が後漢の皇帝から皇帝の位を譲られて後漢は滅亡。曹丕は跡を受け継ぐ形として魏を建国しました。
しかし、曹丕の動きに各地の豪族たちは黙ってはいません。これに対して221年には四川省を支配していた劉備が成都を首都として蜀を建国。さらに孫権も229年に建業を首都として呉を建国しました。こうして魏・呉・蜀の三国が並立した時代をいわゆる三国時代といいます。
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西晋の成立と直後の混乱
三国時代は基本的に魏と呉と蜀がくっついては離れての繰り返しで平行線のまま進んでいました。しかし263年に蜀が魏に滅ぼされると魏の中で争いが勃発。最終的にはもともと参謀であった司馬懿が台頭。最終的には孫の司馬炎が265年に魏の皇帝に無理矢理工程の位を渡すように要求。魏は滅亡して新しく司馬炎は晋と命名して280年に呉を滅ぼし中国統一を達成しました。
しかしその後司馬炎は政治にやる気をなくしてしまい西晋は大混乱。女遊びに没頭してしまい、さらにその直後に司馬衷の時代に八王の乱が起きてしまい西晋はがたがたとなってしまうのです。
さらに極めつけにはこの八王の乱の時代に五胡と呼ばれる異民族を傭兵として雇っていたためこれらの民族が非常に強い力を持つようになります。
特に匈奴は強い力を持つようになってしまい316年に永嘉の乱によって西晋は滅亡。中国の華北地方は侵入してきた五胡が国々を次々建国。
華南地方には西晋の貴族たちによる亡命政権が打ち建てられ東晋が建国しました。
五胡十六国時代
匈奴によって西晋が滅ぼされると匈奴のほかの民族も次々と乱入。たくさんの王国が乱れた時代なのでこの時代のことを五胡十六国時代と呼ばれています。
その後五胡十六国時代では様々な王朝が誕生していくことになるのですが、やがて鮮卑族の拓跋氏が建国した北魏が439年に華北を統一しました。北魏は異民族による支配でありながら積極的に漢化政策を行うことに。漢化政策はようするにすべての文化を中国風に改めること。鮮卑の国であった北魏はここから一気に中国の文化を取り入れた国になっていき、都もかつての晋があった洛陽に遷都します。
しかしこれにぶちぎれたのが将軍たち。鮮卑族はもともと騎馬民族でありめちゃくちゃ武闘派。それなのに中国にすり寄る孝文帝のことを将軍たちは理解できませんでした。
そのため北魏は北魏は530年に内紛が起こって東西に分裂。東魏と西魏に分かれそれぞれ分離集合しながら隋へと繋がります。
一方で中国の南方では異民族を恐れて中国の北方から人々が多く移住していくように。
そのため人口が少なかった華南の地域にも人が住み始めていき華南の開発が進んでいくようになっていき、南朝は一気に豊かな国となっていきます。また南朝は北朝みたいに争いはほとんど起こることはなく、平和な時代がやってくることに。しかし南朝は皇帝よりも土地を開発していた貴族のほうが強くなることに。
そのため争いは起きないものの王朝はころころ変わっていき東晋の後、宋・斉・梁・陳という4つの王朝が華南地方を支配しました。
隋の久しぶりの統一
三国時代からグダグダしながら統一と分裂を繰り返していた中国ですが、北朝系の隋が589年に南朝の陳を滅ぼしたことで後漢から数えて400年ぶりに中国が一つに合わさることになりました。
楊堅は統一を果たすと北魏が行い始めた均田制や租庸調などを継承して使っていましたが、ここで中国で非常に大切となる科挙制度が誕生して行くようになります。
科挙制度とはわかりやすく言えばめちゃくちゃ難しい試験のこと。これまで中国では九品中正法という地方豪族が官僚権力を独占していく制度でしたが、科挙が導入されたことで実力主義の考え方が浸透していくことになります。
そう考えると隋は秦に並んで重要な王朝だとわかるのですが、楊堅の跡を継いだ煬帝が隋の2代目を継ぐと国はまためちゃくちゃになってしまうのです。
煬帝は南朝で育った華南地方の豊かな土地を見て南北がつながる大運河を計画。華北と華南を運河にて結んだことによって南北での人や物資の流通がなめらかとなり経済が発展しました。
これだけみると非常にに有意義な政策かに思えるのですが、この大運河の建設は急ピッチで行われたことによって100万人以上の人が重労働に駆り出される事態に。
さらに煬帝が高句麗への遠征が三回行って三回ボロボロになって負けてしまい国民の不満は最高潮に。最終的には煬帝は各地で反乱がおきるさなかに暗殺。618年に隋は滅ぶことになるのでした。
唐の建国と貞観の治
隋を滅ぼしたのち、中国では軍人たちが群雄割拠していましたが、その後強大な軍事力を持っていた李淵が唐を建国して中国統一を目指していくようになりました。唐の時代の制度は基本的には租庸調制、科挙制度を受け継いでいくことになります。(科挙制度は清が滅ぶまで存続)
そして2代目の李世民の時代に中国を統一。李世民は対外的には中国の外で暴れていた突厥を分裂させることに成功し勢力拡大。内政は律令制を完成させ、官僚制度を整えたことで唐は最盛期を迎えることになります。その様子は貞観の治とたたえられており、民衆は家の玄関を閉ざさなくても安心して暮らせたとか。まあこれは言い過ぎかもしれませんが唐の都である長安は当時世界最大級の都市として各国の商人などが集まり、名実とともに世界最大の国際都市となったのです。
その後李世民の跡を継いだ高宗の時代には朝鮮半島では高句麗を滅ぼして朝鮮を確保。西域では突厥を滅ぼしてベトナムにまで進出を行い唐の支配領域が最大となります。
しかし、ここまで領土が広すぎると管理が難しくなってしまうため、征服した土地には都護府という派遣した地方官を置いて統治させ、さらには地元の人が反乱を起こさないように現地の異民族による自治を任せる羈縻政策もとって国内の政治を安定させました。
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則天武后の時代
高宗の時代に唐は最大領土となりましたが、その裏では唐は政治混乱の時代を迎えつつありました。
高宗の皇后であった則天武后はその他の皇后たちを謀略によって追い落とし、さらには病気がちとなった高宗に代わって政治を行なっていくようになりました。
則天武后はさらには自分が皇帝になるためになんと唐の乗っ取りに成功。690年には唐を一旦滅ぼして武周を建国したのです。則天武后は後にも先にも中国史上唯一の女性皇帝となりました。
則天武后は漢字の創作が大好きで則天文字と呼ばれる漢字を創作したり、仏教を厚く信仰して中国の各地に磨崖仏を建造したりするなどの政策を行なっていきますが、最終的には唐の官僚たちが何とかして則天武后を説得して唐に戻すことに成功します。
則天武后は悪い皇帝として描かれることがよくあるのですが、最終的には自ら皇帝を降りたことや、彼女が取り立てた家臣たちが後々玄宗皇帝の時代に活躍したことから再評価の動きが見られているのです。
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