中国の歴史

中国史上最初で最後の女帝である「則天武后」ってどんな人?生涯や政治を解説!

日本では女性天皇という存在は推古天皇を初めとしてある程度いるのですが、お隣の中国では儒教思想もあり女性が上に立つことはかなり稀なことでした。しかし、そんな中国においても歴史が長いこともあり1人だけ女帝として君臨して中国大陸を治めていた女性がいたのです。今回はそんな中国史上唯一の女帝となった則天武后についてその生涯と彼女が行なっていった政治についてみていきましょう。

則天武后の生涯

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中国の歴史において唯一の女帝である則天武后。わずか一代で唐を一時的に滅ぼし、武周を建国した彼女の生涯は一体どんなものだったのでしょうか?

則天武后の誕生と女官時代

則天武后は624年に州都督である武士彠のむすめとして生まれます。幼名は武照。則天武后は死後に与えられた称号です。

州都督は今の知事みたいな役職で、上流階級の家に生まれた武照はいろいろな分野の英才教育を受けて育ち、14歳の若さでで唐の第2代皇帝である太宗の後宮に入りました。

後宮というのは要するに皇帝に近づくことができる女性のことで、一つに後宮といっても皇帝の皇后の人もいれば武照みたいに女官のような雑務をこなすなどかなり地位は別れていたのです。

英才教育を受けてさらに美貌を兼ね備えた武照でしたが、彼女は太宗の寵愛を受けることはありませんでした。太宗は彼の聡明さをみてこの才能がのちに唐に災いをもたらすと疑い始めます。太宗は唐はおろか、中国王朝の中でも屈指の名君に数えられていることもあって人を見抜く力はあったのでしょう。

しかし、武照は太宗に気に入られなくても皇太子であった李治に気に入られようと猛アタック。李治は太宗の様に有能ではなかったのか武照にゾッコンになってしまい、彼女を寵愛していく様になりました。

皇后に立后

649年、この年長年唐を支えてきた太宗が崩御。皇太后であった李治は高宗として皇帝に即位するのですが、この頃は女官は皇帝が崩御すると尼になることが通例となっており、武照も出家することになりました。

しかし、武照は出家を拒み、額に焼印をつけてまでしていたため、代わりに道教の道士として修行することになります。

一方の宮中の方はというと、この頃高宗の寵愛を受けようと女官の間で対立が発生。皇后であった王皇后は武照を入宮させてライバルから気を逸らそうとするのですが、。武照は高宗に元々から好かれていたことを利用して王皇后に代わって自身が皇后の座に座ることを決意します。

ある日、武照は高宗との間に子供を出産し、王皇后は皇后として出産した赤ちゃんを祝うために武照の部屋に向かいました。

その後王皇后は赤ちゃんをあやした後に部屋から退出。武照はそのタイミングを見計らって何とあろうことか出産したばかりの我が子を絞め殺したのです。子供の様子を確認しようとやってきた高宗が、子供が死んでいるのに気がつくと、武照は「王皇后が子供を毒殺した」と泣いて訴えできます。

武照のことが好きであった高宗は武照の子供が王皇后に殺されたと本気で信じてしまい「王皇后を廃して、武則天を皇后に立てたい」と発案。皇帝の意見に逆らうことができる勇気を持っている家臣なんているわけなく、高宗の機嫌をとるために王皇后を排除して代わりに武照を皇后にすることに賛成しました。王皇后はこの一連の事件によって皇帝の子供を殺した罪に問われ殺害。武照はついに皇后となり武則天としての道を歩んでいくことになるのです

武皇后による垂簾政治

こうして皇后に就任した武皇后でしたが、夫である高宗はかなりの病弱。なんとか政治を行ってきましたが、そろそろ限界を迎え始めたのを見て武皇后は高宗の代わりに政治を行う垂簾政治を行い始めることとなりました。

武皇后は皇后としての身分にはなったものの、とても確固たる地盤がなくかなり不安定なものだったのです。そこで武皇后はこれまで政治を行なってきた貴族を徹底的に排除。その代わりに自身の権力を支える人材を本来ならば取り立てられるはずもない地位の人から積極的に登用していくことになりました。

武皇后はとにかくどうにかして地盤を固めるべく才能と武皇后への忠誠心がある人を重視していきます。ちなみにこの時に武皇后に取り立てられた家臣たちは武皇后が亡くなった後に即位した玄宗の下で開元の治を導き、唐の最盛期を迎えることとなるのですが、それはまた別の話。

高句麗への侵攻と権力の確立

こうして才能のある人たちを登用していった武皇后ですが、彼女は内政を整えるだけではなく、対外活動も精力的に行なっていくことになります。この当時唐が一番悩みの種としていたのが朝鮮半島の情勢でした。

この当時朝鮮半島では高句麗・新羅・百済などの国が群雄割拠していましたが、唐はこの当時同盟関係を結んでいた新羅の要請を受け入れて百済を滅亡に追い込みます。また660年には百済再興を掲げた日本が攻めてきた時も白村江で迎え撃っていわゆる白村江の戦いにも勝利。

さらにその5年後には新羅と手を結んで孤立化していた高句麗を滅ぼし、隋の時からの宿敵であった高句麗をついに倒したのです。

このように唐の地位を確立していった武皇后でしたが、その一方で奸臣なども重用していくようになるなどその権力を専横化していくなど徐々にその野望を表していくことになるのでした。

高宗の死去と武周の建国

このように徐々に専横化していく武皇后に対してついに高宗は危機感を覚え始め、武皇后を反対していた宰相などとともに排除に乗り出していくことになるのですが、この動きを察知した武皇后は権力の奪取を許さず、高宗は683年に失意のうちに亡くなってしまいます。 武皇后の専横に対して高宗の他にも皇族たちが挙兵するのですが、この動きを全て察知していた武皇后はこの反乱を全て鎮圧。

そしてついに高宗の死から2年後の690年女帝誕生を暗示した預言者を使ってついに女帝に就任。自らのことを聖神皇帝と名乗り、武周を建国したのです。

則天武后の政治

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こうして皇帝に就任した則天武后でしたが、彼女は善悪つけがたい政治を行なっていき中国大陸を収めていくことになりました。そして彼女の政治は日本の政治にも影響を与えるようになるのですが、次は彼女がどのような政治を行っていったのかについてみていきましょう。

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