幕末日本の歴史江戸時代

「藩校」とは一体どんな学校?歴史系ライターがわかりやすく解説

「藩校」とは、江戸時代に各藩において独自に運営した藩士の子弟向けの教育機関でした。明治時代以降も歴史が続き、現在は公立高校になっているという藩校もありますし、建物が現存して重要文化財に指定されている場合もあります。そういった意味では「歴史の証人」と呼んでも良いのかも知れませんね。しかし藩校ではどのような教育がされていて、どんな人たちが通っていたのでしょう?またどのような目的で建てられたのでしょうか?その歴史や教育内容を解説するとともに、いくつかの有名な藩校もご紹介できたらと思います。

江戸時代の教育機関にはどのようなものがあった?

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そもそも藩校とはどのような教育機関なのでしょうか?庶民だけでなく誰でも通える学校だったのでしょうか?ここでは藩校だけでなく、江戸時代における教育の場を見ていきたいと思います。

庶民が誰でも学べる場【寺子屋】

時代劇で頻繁に登場する「寺子屋」ですが、民衆のための初等教育の場として重宝されていました。古くは鎌倉時代頃に、僧を目指す子供たちがお寺へ入ることが増え、室町時代になると町人や農民の子供たちが寺で学ぶようになりました。だから「寺子屋」と呼ぶのですね。

寺子屋が庶民の間で一般的になるのは江戸時代中期頃のこと。一般的に学のある人が増えてきたのが大きな要因でしょう。お坊さんだけでなく、神官や医者などもそうですし、武士身分の者が浪人し、仕官するまでの繋ぎとして寺子屋を開いていたことも多かったそうです。

教育の内容は「読み・書き・そろばん」など。現代風に言えば「読書・筆記・計算」ということになるでしょうか。あくまで初歩的な教育が一般的でした。

とはいえ寺子屋の普及によって、日本の識字率は世界でもトップクラスとなり、まさに教育大国にふさわしい時代だったといえるでしょう。

ちなみに寺子屋という呼び名は、大坂や京都などの上方で広まり、江戸周辺では「手習い指南所」と呼ばれていたそうです。

各藩の人材育成機関【藩校】

日本全国の各藩がこぞって力を入れた「藩校」ですが、最盛期には全国約300藩のうち、270もの藩校が設立されました。江戸時代以前の公的教育機関には、足利義兼が創設し室町時代に上杉憲実が再興させた「足利学校」が有名でしょうか。戦国時代には、あのフランシスコ・ザビエルをして「最も大きく、最も有名な坂東(関東)のアカデミー」と呼ばれていたほどです。

また戦国時代の畿内や九州の一部では、キリスト教の布教とともにセミナリヨコレジオなどの神学校が設立されていますね。戦国大名が支援していたものの、あくまで公的なものではなく私学校と呼べるべきものでした。

江戸時代になると、人材育成の観点から各地に藩校が設立されるようになります。これは後で述べますが、戦いのない平和な時代だからこそ、有能な人材を育てる必要性があった。と言えるでしょうか。

また明治維新の元勲たちも、多くが藩校の出身者ということも注目に値しますね。

高等教育を担った私学校【私塾】

江戸時代には様々な学問が興隆しました。幕府が推奨していた儒学をはじめとして、国学や、蘭学や、医学など。どちらかと言えば、より専門的な分野に特化した学校が「私塾」だったといえるでしょうね。剣術や武道を身に付けるための「道場」なども、精神修養という側面からすれば含まれるかも知れません。

学問といっても思想教育という面が強く、中には幕府の方針にそぐわない思想を教授する私塾もあったため、迫害や懲罰を受けるケースもあったようです。

例えばシーボルトが設立した鳴滝塾は、シーボルト事件と共に閉鎖されてしまいましたし、慶安の変の首謀者由比正雪の軍学塾だった張孔堂も弾圧を受けています。また吉田松陰の松下村塾もたびたび圧迫を受けて閉鎖に追い込まれました。

とはいえ私塾の教育理念や思想は現代に受け継がれていることも多く、福沢諭吉の慶應義塾や、佐藤泰然の順天堂など、現在まで連綿と続く教育機関もあるのです。

江戸時代に数多く生まれた私塾は、日本の教育史だけでなく、日本の歴史そのものに大きな影響を与えたといえるでしょう。

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明石則実