中国の歴史

中華思想から見る「中国の歴史」これでもかと解説!

玄宗皇帝の時代

玄宗もまた李世民とともに名君として名高くその治世は開元の治と呼ばれています。

玄宗皇帝は辺境の地に節度使と呼ばれる軍人を派遣して唐を支えてもらおうとしましたが、しかしタラス河畔の戦いでアッバース朝に敗れたことがきっかけで唐の状況に陰りが見え始めました。

玄宗皇帝は即位も中盤に差し掛かっていくと家臣の娘であった楊貴妃にべたぼれ。政治に無関心になっていき、中国は一気にぐちゃぐちゃになっていきます。玄宗が政治に無関心になっているときに民衆は重税に耐え切れなくなっていき次々と逃亡。均田制は8世紀には形骸化していきます。さらに兵士も少なくなってしまい、これまでの徴兵制から募兵制に変えました。

この結果ただでさえ結構な権力を持っていた節度使が行政と徴税権になるまで権限が拡大。また755年には、玄宗に取り入れられていた楊貴妃の親族たちに不満を持った節度使の安禄山たちが安史の乱と呼ばれる反乱を起こしました。この安史の乱によって楊貴妃は殺害。玄宗も失意のまま病死ししてしまい、唐は滅亡寸前に追い込まれてしまいます。

安史の乱時代は節度使とウイグルの力を借りたことによって鎮圧されたのですが、ここから節度使の権力は勢いを増していき、皇帝よりも節度使のほうが権力のある状態に突入してしまうのです。

唐の滅亡と五代十国時代

しかし以降、唐の中央政府の力は弱まり節度使が権力をつけるようになります。権力がある節度使は藩鎮と呼ばれました。藩陳によって中国は地方分権が進んでいき唐は一気に衰退していくようになります。唐は何とか勢力を縮小しながらも存続していましたが、財政難となっていた唐は塩の専売も行いはじめ、塩に重税をかけていくようになりました。

これを見ての密売人であった黄巣が反乱を起こし黄巣の乱がおこりましたが、藩鎮によって鎮圧されます。しかし黄巣の乱で唐は壊滅的なダメージが与えられてしまい、最終的には黄巣の参謀であった朱全忠が後梁という国を建てて唐を907年に滅ぼしました。

しかし朱全忠は唐の旧領土をすべて手に入れることはできず、じだいは藩鎮が互いに争いあう五代十国時代に突入していくことになります。

五代十国時代は特に特筆する出来事はありませんでしたが、中国が分裂したことによって貴族の没落が決定的に。戦乱の中で没落していった貴族に代わって土地は地主が経営するようになります。

また北方騎馬民族の力もこのころから増大しており、契丹が燕雲十六州を分捕ることに成功。このことはのちの中国を大いに動かすことにつながっていくことになりました。

 

北宋と遼の時代

分裂していた五代十国時代でしたが分裂していた国の一つである後周の将軍であった趙匡胤が急激に勢力を拡大。最終的には節度使を倒して北宋を建国しました。

趙匡胤は中国の歴史になかでも名君に数えられているのですが、彼の凄いところは軍に頼らない文治政治をとったところ。趙匡胤は節度使を説得して彼らを軍人から官僚へシフトチェンジ。そのことによって戦争を起こす力をなくしていき中央集権化をはかるようになったのです。

さらに宋の時代には隋や唐の時代でも行われてきた科挙の制度を拡大。文官を重宝して国を治めようとしたのです。

しかし、良いこともあれば悪いこともあるのが政治。宋はあまりにも文治政治を敷いたおかげで軍の強さが中国の歴史の中でも一番弱いのではないかと言われるほど縮小されてしまったのです。さらには北方の契丹が遼という国家を設立。契丹は中国を支配しようと度々北宋に攻め上ってきました。

しかし、戦争しても負けると考えている中国は何とか戦争を避けようと頑張ります。そこでとった作戦がお金で解決だったのです。

北宋は1004年に澶淵の盟を結び毎年銀と絹布を彼らに納める代わりに遼の侵攻を起こさないようにしていたのでした。しかし、そんなことをしていくうちに国の財政は遼に対する献金に流れていき火の車に。このままでは国が滅びかねない状態に突入してしまうことになります。

靖康の変

北方民族に対する支払いもあって国家経営がボロボロになっていた北宋。そこで「このままじゃだめだ!」と考えていた王安石という宰相によって青苗法、市易法、均輸法、募役法、保甲法などの法律を整備。財政を何とかして元に戻そうと必死でした。

しかし、王安石が亡くなると、王安石を支持する新法党と王安石の改革に反対した保守派である旧法党にわかれて大混乱。政治改革は失敗に終わってしまいました。

そんな中北方では遼に代わって女真族の金が台頭していくことに。

宋は金と手を組んで長年の敵であった遼を滅ぼしましたが金が北宋に対していちゃもんを突き付けてきました。このいちゃもんに拒否したことで金は華北を侵攻。都の開封は陥落してしまい皇帝を捕らえられ北宋は滅亡してしまいました。

ごたごたの末の南宋建国

北宋はこれによって滅亡してしまいましたが北宋の残存勢力は華北地域を捨ててなんとか南方に到着。華南地方を地盤として権力を維持しました。

しかし、金の勢力は一気に華南地方に攻め込もうとしており、回復していない南宋は一気に滅亡のピンチに追い込まれることになります。

南宋では戦うべきか戦わないべきかで大揉め。主戦派を主導した岳飛と和平派を主導したのは秦檜の間で対立が生じていくことになります。岳飛は何度も金の侵攻を食い止めた人物であり、彼であればもしかしたら華北地方の回復も夢ではありません。しかし、金の勢力では勝てないと考えていた秦檜は岳飛を毒で暗殺。南宋では和平派の勢いが一気に増していき金に対して毎年銀と絹を送ることで和議が成立しました。

こうして南宋は華南地方における地盤を確立して平和な時代を謳歌していくことになります。

元の侵攻

五代十国時代以降中国では北宋の混乱もあってか華北では遼や金といった北方の騎馬民族、南は南宋の漢民族の国が支配するという状態が続いていくことになります。

しかし13世紀になると遼や金に支配されていたモンゴル高原から独立を果たしたモンゴル民族が怒涛の勢いで攻めてくることになります。

遼が1125年に滅びるとテムジンがモンゴルの諸民族たちを統合。1206年にクリルタイにてチンギス・ハンと名を変えてモンゴル帝国を建国しました。モンゴル帝国は次々と周辺地域を襲っていき中国方面でもオゴタイ・ハンの時代に金を滅ぼして中国地域へと進出。オゴタイは首都をカラコルムに定めて西はヨーロッパ、東はアジアの端まで広がる大帝国を築き上げました。さらにフビライ・ハンの時代には都をカラコルムから大都(現在の北京)へと遷都。豊かである華南地方の獲得のために南下を開始し南宋を滅亡に追い込み、1271年には国名元と名前を変えて中華王朝となったのでした。

明の建国

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こうして中国を統一した元でしたが、元はフビライ・ハンがなくなるとチベット仏教にどっぷりとハマってしまい、その寺院の建設のために大量のお金を投じてしまったため財政難と紅巾の乱によって滅亡します。その後中国では紅巾の乱で頭角を現した武将たちが争い始めるのでますが、最終的には貧農出身である朱元璋が中国を統一することになりました。

朱元璋は1368年に洪武帝を名乗り、南京を首都として明朝を建国しましたがこの人がまあ恐ろしいこと。

洪武帝は自分に歯向かいそうな人を次々と粛清していき、さらには六部を皇帝直属とするなど皇帝独裁を強化。皇帝が全て取る仕切る状態となってしまいました。

また、洪武帝は農民出身だということもあって農村に対して手厚い保護をおこなっていき、魚鱗図冊などを発行して確実に税金を取り立てました。

北虜南倭に苦しめられる日々

洪武帝の死後、建文帝と叔父の燕王の間に靖難の変がおきます。そして靖難の変にて皇帝に即位した燕王は永楽帝として首都を南京から北京に遷都。現在では故宮となっている紫禁城を建設して清が滅亡するまで代々の皇帝の住居となりました。

永楽帝は皇帝に即位すると明の凄さを示すために対外政策を断行。モンゴル高原やベトナムに進出して、さらには元々イスラム教とであった鄭和に対してインド洋の遠征を行わせていくことになります。

こうして明の勢力が広まっていくことになるのですが永楽帝が亡くなったあと明は北方のモンゴル人と南方の倭寇に苦しめられる北虜南倭の時代に突入。

北ではオイラトのエセン・ハンが明の正統帝を捕虜として捕らえる土木の変がおこり、北京が一回陥落しかける事態に。明が万里の長城を改築したのはこの時です。

また南からは明の海禁政策に反発した倭寇による略奪行為が起こることに。明は北虜南倭によって徐々に弱体化していくことになりました。

明の滅亡と清の征服

北虜南倭に苦しめられてきた明は時代が立っていくにつれて財政赤字に苦しめられて行くことになります。

そこで万暦帝の時代に張居正が財政改革を行いますが、急進的な改革はうまくいくことなく、さらには皇帝独裁のせいか宦官の力が急速に増していき、明は大混乱。さらにとどめとばかりに二度にわたって日本が朝鮮出兵が行い、その援軍の費用が財政を思いっきり圧迫。

最終的には農民に重税をかけたおかげで農民反乱が勃発。1644年の李自成の乱によって北京が陥落して明は滅亡することになりました。

その後中国では混乱の時代に突入していくことになるのですが、その時に活躍したのが女真族のヌルハチ。ヌルハチは女真族を統一して後金を建国。八旗という軍事組織制度や満州文字を作り、明と並ぶ国を育て上げていきます。

そして息子のホンタイジは満州とモンゴルを征服。1636年にはなんだかんだで続いていた元から皇帝を譲られ清朝を建国しました。

李自成が明を滅ぼすと、清朝の軍隊は万里の長城を越えて中国本土へ進出し、李自成の軍隊を打ち破り明の遺臣を取り込みながら中国全土を支配下に置きました。

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