中国の歴史

5分でわかる中国の官吏登用試験「科挙」歴史と影響をわかりやすく解説

中国の6世紀末に成立した隋以来清王朝まで続いた官吏登用試験制度を科挙制度と言います。この科挙制度は現在の日本の上級公務員試験と似た制度で、中国の各王朝の上級官僚を選抜するものでした。日本でもこの上級公務員試験に通って採用された公務員をキャリアというように、各王朝の政府の中枢を担っていたのです。この科挙制度の歴史や功罪についてわかりやすく解説します。

1.科挙制度とはどのようなものか簡単に見てみよう

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科挙(かきょ)制度は、中国の隋以降の王朝で採用されていた官僚(官吏)登用試験制度です。1911年に辛亥革命で滅んだ清国まで、それぞれの中国王朝の政治中枢官僚(宰相まで)を輩出していました。各王朝でその選抜方法には差があるものの、1300年にわたって連綿と続いていた制度です。

1-1.昔の日本では取り入れられなかったが、現代の上級公務員試験に似たもの

この科挙制度は、中国王朝から朝鮮半島にも伝えられ、朝鮮王朝などでは採用されていましたが、日本においては、宦官(去勢された家臣)制度とともに取り入れられていませんでした。宦官制度はもともと牧畜における去勢から派生したもので、牧畜の風習がなかった日本では広がらなかったのはある意味納得がいきます。しかし、科挙制度が広がらなかったのは不思議ですね。しかも、現代の日本の上級公務員試験は、科挙制度と似た性格のものです(日本の官僚は次官が最高位だが、中国の科挙試験で選抜された場合は宰相までいけた)。遣隋使、遣唐使がおこなわれていたにも関わらず、平安時代も武家社会でも科挙制度は取りいれられていません。

2. 科挙の歴史 隋の時代に始まった

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科挙制度は、もともと6世紀末の中国の隋の時代に初めて採用された制度です。この科挙制度は、中国の歴代の王朝の支配者が変わっても、また、異民族が統治してもそれぞれに政治組織を維持するために取り入れられていました。

2-1.科挙制度以前の中国の支配形態

もともと、科挙制度を始めた隋はもともと中国東北部の北方民族出身であり、漢民族ではありません。三国志の時代以降、晋の時代以降、中国国内は北方民族などの侵略で、漢民族以外の王朝が入り乱れて混乱の時代が続いていたのです。五個十国時代と言われていました。したがって、隋王朝は晋以来の300年ぶりの統一王朝だったのです。

異民族の王朝が乱立していても、ほとんどの王朝が広い中国大陸を支配する政治組織を持っておらず、武力支配による短命王朝が入り乱れていました。

そのため、人材に乏しい異民族王朝隋の初代皇帝の文帝(有名な煬帝の父)は、優秀な漢民族の知識人を科挙制度で取り込んで王朝の運営をしようとしたのです。それはある意味、中国の歴史においても画期的な出来事だったと言えます。

2-2.随以降の王朝に引き継がれた科挙制度

唐王朝でもその制度は、班田法などとともに引き継がれており、統治における優れた制度だったと言えるのです。隋のほか、モンゴル族の元朝、女真族の清王朝などの異民族王朝でも政治中枢を支えたのはこの科挙試験に通った人たちでした。

3. 科挙が始まるまでの政治を担った人たち

中国は、戦国春秋時代の昔から、王朝の政治に関わる官僚は貴族の一族から選ばれた人たちが独占しており、一般の人はどんなに優秀でも政治の中枢に登ることはありませんでした。

漢の劉邦や三国史の嘱の劉備玄徳、明の朱元璋などのように、王朝の混乱期後に貧しい身分から新たな王朝の皇帝になることはあります。しかし、通常は一般人が仕官し、政治の中枢に登ることはなかったのです。

すなわち、中国では、随の時代より前までの政治は、貴族、武将らが担っていたといえます。

3-1.随王朝以降の国の政治を担う人は変わった 世界的にも画期的

それに対して、隋王朝の初代皇帝文帝(楊堅)は、家柄や身分に関係なくどんな人でも才能があれば官吏に任用する受験ができるように試験制度を設けました。すなわち、この試験に合格した人たちが王朝の各政治組織を動かすことを目的にした科挙制度だったのです。

これは、当時としては世界的に見ても画期的なことでした。ヨーロッパも中世が始まり、騎士(領主)やキリスト教会が社会を支配する時期でした。日本でも、政治を担うのは、古代から明治維新まで、貴族あるいは武士に限られていたのです。

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