三国志教養歴史

はじめての「三国志」あらすじと心に残る名場面を元塾講師が解説

今からおよそ1800年前。あまたの英雄たちが壮大な中国大陸の覇権を握るため、生死をかけて競い合いました。やがて、曹操・劉備・孫権の3人の英雄が中国大陸を3つに分けて支配し、互いに中国全土の支配を目指します。後漢王朝の末期におきた黄巾の乱から晋による三国統一までのおよそ100年間が三国志の時代でした。今回は三国志のあらすじや英雄たちの生き様、心に残る名場面を解説します。

三国志の大まかな流れ

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三国志の原典は晋の歴史家陳寿が書いた『三国志』(正史)です。

今から1000年くらい前の唐や元・明の時代の三国志の時代を舞台とした小説が書かれました。その代表作『三国志演義』は羅漢中の著作です。

正史の『三国志』が魏を中心として描いたのに対して『三国志演義』は蜀を中心に描きます。名場面の紹介の前に、簡単に三国志のあらすじを整理しましょう。

三国志における名前のルール

三国志の時代の中国では今の日本とは違う独特の名前のルールがありました。当時の男性(歴史に名を残すような人たちの多く)の名前は姓・名・字の3つの要素でできていました。

例えば、三国の魏のもとをつくった曹操は姓は曹、名は操、字は孟徳。姓は名字、名は親につけられた名前、字は成人後に自分で名乗る名前です。名と字は一緒に呼ばれることはほとんどありません。

彼のことは曹操または曹孟徳というべきでしょう。これは、他の人物たちも同じです。ちなみに、曹操は最新の研究で功績が見直されつつあるので興味がある人は調べてみると面白いですよ。

#1 英雄たちが活躍するきっかけとなった「黄巾の乱」

後漢王朝の末期、西暦180年~190年にかけては世の中が大きく乱れていました。国を立て直そうという官僚と皇帝のそばで権力を握る宦官(去勢された男性で皇帝や後宮の女性たちの世話をしていた人々)が権力闘争をしていたからです。

異民族の侵入や自然災害が起きても有効な対策をとれず、人々の不満はたまりました。こうした中、人々の信仰を集めた宗教である太平道の教祖張角という人物が朝廷に反旗を翻しました。

反乱軍は黄色い頭巾を身に着けたことから黄巾の乱と呼ばれます。曹操・袁紹・孫堅・劉備らの活躍で反乱は鎮圧されました。

#2 「桃園の近い」~劉備・関羽・張飛が誓った義兄弟の契り~

黄巾の乱にさかのぼること数年前、「三国志演義」の主人公劉備は貧しい一青年に過ぎませんでした。乱れた世を治したいという気持ちを持ちながら、何もできない自分に嫌気がさして嘆いたのです。

そんな中、酒場で出会った同じ志を持つ二人と意気投合します。二人の名は関羽と張飛。彼らと桃の木の下で誓いを立てます。

「我ら三人、生まれた時は違っても死ぬときは同年、同月、同日、同時!」。こうして、三人は義兄弟となる約束をしたのです。三人は各地を転々としながら少しずつ力をつけていきました。

#3 三国志一の悪役、董卓の登場

三国志一の悪役といえば董卓です。彼は地方の将軍に過ぎませんでしたが、黄巾の乱の後に混乱に乗じて都を制圧。当時の皇帝である少帝をやめさせ、弟を献帝として皇帝の位につけました。

当時、最も勇猛だった呂布を赤兎馬という天下一の馬(のちに、関羽の馬になります)を与えることで味方につけます。最強の武将を手に入れた董卓はやりたい放題をやりました。

やがて、董卓への反感を募らせた各地の武将たちが「反董卓連合軍」を組織して董卓打倒に動き出します。すると、董卓は都の洛陽を焼き払い長安へと逃げました。その後、呂布との関係が悪化して殺されてしまいます。

#4 曹操が天下統一に大きく踏み出した「官渡(かんと)の戦い」

董卓の死後、中国全土は群雄割拠の時代となります。その中で力をつけたのが曹操でした。曹操は「平和な時代なら有能な官僚、戦争の時代なら乱世の奸雄(悪知恵にたけた英雄)」と評された人物でした。

曹操の前に立ちふさがったのが中国北部の河北をほぼ制圧していた袁紹です。華北の支配をかけた曹操と袁紹の決勝戦が官渡の戦いでした。曹操は劣勢を跳ね返して袁紹を撃破。大陸の北半分を支配していきました。

劣勢に立ち弱気を見せた曹操を叱りつけて前向きにさせた参謀荀彧とのやりとりや、袁紹軍の食糧庫の位置を知った曹操が、即断即決で奇襲を決断し勝利に導くなどスリリングな場面が続きます。

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