アメリカの歴史独立後

冷戦直後に起きた世界規模の戦争「湾岸戦争」をわかりやすく解説

1989年に冷戦が終結。アメリカとソ連が争い合うのをやめたことで世界は新しい時代に突入することになります。 そんな新世代初めての世界間での戦争となったのが1990年に起こった湾岸戦争でした。 今回はそんな湾岸戦争について詳しく解説していきたいと思います。

湾岸戦争って何?

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湾岸戦争とは1990年8月のイラクのフセイン大統領が石油資源の獲得のためにイラクの隣にあったクウェートに侵攻によって始まったイラクとアメリカを中心とする多国籍軍の間で起こった戦争です。

戦争自体は短期間で終結しましたが、この湾岸戦争はアメリカと中東との関係や中等の情勢、そして日本の自衛隊派遣に大きな影響を与えることになります。

また、この戦争はアメリカとソ連が冷戦を終結させたのちに起こったはじめての国際戦争であり、新時代の争いの幕開けを象徴する戦争でもありました。

ちなみに、湾岸戦争という名前は世界的な名前ではなく、例えばイラクがある中東では少し前に行われたイラン・イラク戦争を第一次湾岸戦争として第二次湾岸戦争といったりしています。

(ちなみに、2006年のイラク戦争は第三次湾岸戦争と呼んでいるんだとか)

湾岸戦争が起こるまでの道筋

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湾岸戦争か起こったのはイラクがクウェートに侵攻したことによって起こりましたが、それ以前から湾岸戦争が起こる事件が起こっていました。

まずは湾岸戦争が起こるまでのあらすじについて見ていきたいと思います。

イラン・イラク戦争の影響

中東の小さな国であるイラク。この国はサッダーム・フセインによる支配が行われていました。そんなイラクでしたがイラクはイラン革命がおこった危機感とイランの石油輸出権を奪うためイラン・イラク戦争が起こることになりました。イラン・イラク戦争はイラク側にアメリカがついたことから優位に進めていましたが、8年にもわたる戦争でも決着がつくことはなく、1988年に講和を結んで終結。

イラクは経済援助を受けたことによって中東では裕福な国となっていましたが、戦争によって600億ドルもの膨大な戦時債務を抱えることに。

さらには8年にもわたる戦争によって国土は大きく荒廃することになり戦災によって経済回復も遅れ経済に深刻なダメージを与えることになりました。

石油による関係悪化

こうした結果経済的に困窮していたイラク。しかし中東には世界経済も大きく動かすことができる絶好のカードである石油が大量に埋蔵していました。

イラクもこの石油輸出によって外貨獲得を行い経済立て直しを図る必要があったのですが、当時の原油価格は1バーレルあたり15~16ドルの安値。石油を売ろうにも全然売れることがなく、売れたところで大した外貨の獲得は見込めることはできませんでした。その結果イラク経済は行き詰まりは深刻なものになりイラクはついに動き始めることになるのです。

フセイン大統領は石油産出国の利益を守るOPECに対してイラクの経済を立て直すために原油価格を1バーレル25ドルまで引き上げるよう要請。しかし大量の石油を産出したかったOPECはこの案を聞き入れませんでした。

その一方で他の中東の産油国はというとこのOPECの割当量を超えた石油増産を行っていたのです。

特にクウェートとアラブ首長国連邦はOPECの取り決め通りの採掘を行うことはなく、原油をバンバン採掘。その結果石油の値段は大きく下がることになり、イラクの石油の利益がほとんどなくなってしまいました。

そしてこの石油値段の値崩れはボロボロだったイラク経済に壊滅的な打撃を与えることになるのです。

イラクとクウェートの深い溝

イラクの損害をよそ眼に石油を掘り続けていたクウェートはイラクの非難を浴びようとも行動を改める気配はなし。イラクはクウェートがOPECの生産協定を破たことによって中東全体でで5000億ドルもの損失を被ったと主張。

またクウェートはイラクにあるルマイラ油田から石油を盗掘していると主張をおこない、クウェートとイラクの関係性は大きな溝が生まれることになります。

そもそもイラクとクウェートは歴史的から見ても仲が悪い国であり、1961年にクウェートがイギリスから独立した際にはイラクはオスマン帝国時代の歴史を引っ張り出して領有を主張するなど領土関係自体いざこざがありました。

さらにイランは石油問題だけではなくイラン・イラク戦争の150億ドル以上の債務支払い問題なども引っ張り出していき両国の関係悪化はヒートアップを迎えることになったのです。

まとまらない交渉

戦争一歩手前の状態となった両国の仲を危険視した中東諸国は戦争が起きないようについに仲介に乗り出すことになります。

サウジアラビア外相はなんとかしてクウェートを侵攻しないようにできるだけ交渉でまとめるようにとする提案を携えてイラクを説得。

さらにはクウェート側もイラクとの対立関係を解消するようにする説得が試みられていき、イラクとの国力差を感じていたクウェートはイラクとの交渉を行うことを発表してさらには戦争を起こすことはないとする証明として軍の動員も解除しました。

こうしていざこざは終わったかと思われたその直後イラクはイラクによる激しいクウェート非難を機関紙にて発表。もうこの当時イラクのフセイン大統領はクウェートを全土併合する決意を固めていたとしています。

エジプトのムバラク大統領などがフセインに対してクウェートに対する交渉を行なって慎重な行動を心がけるようにとする説得の電話をかけるのですが、結局この問題解決は平行線のまま。

エジプトはイラクとクウェートの問題解決に奔走するのですが、イラクはこれを受けても交渉に乗り気ではなく、さらにはクウェート国境に3万人の兵力を集結する始末。

これをうけてムバラク大統領はフセイン大統領に対してクウェートへ軍事行動を起こさぬよう釘をさしておきましたが会談がまとまることはなく、イラクは軍事行動を行うことになるのです。

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