室町時代戦国時代日本の歴史

戦国時代に翻弄された姫たちーーその身に降りかかった悲劇の数々とは?

戦国時代の主人公はもちろん勇ましい武将たちですが、彼らの活躍の陰にはいつも姫たちがいたことを忘れてはいけません。ほぼ確実に政略結婚を強いられた彼女たちの人生は、彼女たち自身の意志はまったく加味されず、実家と嫁ぎ先の運命に委ねられていたと言ってもいいと思います。それでも、悲劇の運命に逆らうことなく、死を受け入れて散っていった彼女たちの生涯は、はかなくも強烈な印象を残します。では、悲劇の姫たちの生涯をいくつかご紹介しましょう。

夫に会うこともないまま理不尽な死を強いられた駒姫

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By 不明 – 専称寺所蔵, パブリック・ドメイン, Link

最上義光(もがみよしあき)の娘・駒姫(こまひめ)は、その美貌の評判を聞きつけた豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に所望されて側室となりました。しかし、彼女は京都に着いて間もなく、処刑されることとなったのです。しかも、一度も夫に会うことのないまま…。いったい何が彼女の身に起きたのでしょうか。戦国時代で最も悲劇的な死を遂げたと言われる駒姫の生涯をご紹介します。

東国一の美少女と称される

駒姫は、天正7(1581)年に出羽(でわ/山形県付近)の戦国武将・最上義光(もがみよしあき)の娘として生まれました。伊達政宗とはいとこに当たります。

とても美しい少女だったそうで、年ごろになると「東国一の美少女」と評判になりました。両親からの愛情をたっぷり受けて育ち、教養あふれる奥ゆかしい姫君だったそうですよ。

そんな彼女の美しさを聞きつけたのが、時の関白・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)でした。彼は豊臣秀吉の養子であり、秀吉に実子が生まれるまでは次の天下人と目されていた人物です。

秀次はすぐに、最上義光に対して駒姫を差し出すように頼み込みました。多くの美女を妻に持ち、秀吉に肩を並べる色好みだった彼の頼みに対し、義光はなかなか首を縦には振らなかったそうです。しかしあまりに何度も頼まれたので、根負けしてしまい、駒姫は秀次に嫁ぐこととなったのでした。

一度も対面しないまま、夫が死を申し付けられる

文禄4(1595)年、駒姫は出羽からはるばる京都へと輿入れしました。秀次は関白として多忙でしたし、側室も他にたくさんいたためか、なかなか駒姫のもとを訪れることはなかったそうです。そのまま、夫にお目見えすることもなく、日々が過ぎていきました。

ところがここで、天下を揺るがす一大事件が起きます。秀次が、秀吉の命令によって切腹させられてしまったのです。

謀反の疑いがあったとか、乱行が過ぎたなどの説がありますが、真相はいまだに藪の中。ともあれ、秀次は高野山へ送られるとそのまま切腹を申し付けられ、多くの関係者が罪に連座して切腹させられたり、流罪になったりしたのです。

秀吉の命令は苛烈をきわめました。何と、秀次や家臣のみならず、妻と子供たちをすべて処刑するように命じたのです。秀次の側室として嫁いでしまった駒姫も、もはや例外ではありませんでした。

理不尽な命令により、15歳で命を散らす

まだ一度も夫に会ったことがないのに、駒姫にも処刑の沙汰が下ったのは、理不尽きわまりないことでした。当然、父・義光や多くの人々が駒姫の助命嘆願を行いましたが、秀吉の処断は変わらなかったのです。

そして、駒姫は他の妻や子供たちと共に、京都の三条河原へと引き出され、処刑されました。まだ15歳でした。それでも彼女は、うろたえることなく辞世の句を詠み、手を合わせて首を差し出したと伝わっています。この時、秀次の妻子は30人余りが殺され、墓をつくることも許されず、ひとつの穴に放り込まれた挙句に「畜生塚」という石碑のみを置かれたのだそうです。

父・義光は愛する娘の死に深く慟哭しましたが、悲劇の連鎖は続きます。何と、姫の母親である正室までもが、姫の死から2週間後に亡くなってしまったのです。娘の後を追っての自殺とも伝わっていますよ。

こうして、姫の父・最上義光は豊臣政権に深い恨みを抱き、これ以降、徳川家康に寄っていき、関ヶ原の戦いでは家康方につくこととなるのでした。

あまりにも理不尽で残酷な悲劇ですよね。駒姫が従容と死を受け入れたというのがまた、涙を誘います。

父の反抗により処刑された鶴姫

image by PIXTA / 21102201

城井鎮房(きいしげふさ)の娘・鶴姫もまた、理不尽に命を奪われた悲劇の姫です。

父・鎮房が豊臣氏に反抗的な態度を取り、豊臣方としてやって来た黒田官兵衛(くろだかんべえ)と対立して討伐されましたが、彼女はいったん和議の証として人質に出されました。しかし、彼女の命は父と共にあっけなく奪われることとなります。そこには、戦国時代の武将と人質の悲劇がありました。では、駒姫の最期までをご紹介したいと思います。

城井鎮房の娘として生まれる

豊前(ぶぜん)・城井谷(きいだに/福岡県築上郡築上町)城主である城井鎮房の娘として誕生した鶴姫。母は九州で一大勢力を築いた大友宗麟(おおともそうりん)の妹です。

父・鎮房は怪力を備えた猛将として名を馳せ、大友氏に従っていました。ただ、大友氏が島津氏の勢いの前に徐々に衰えを見せ始めると、島津氏へと鞍替えしています。

しかし、ここで豊臣秀吉による九州征伐が起こり、島津氏は屈服。父・鎮房は秀吉の檄に対し、自身は出陣せずに代理の者を送ったため、秀吉から大きな不信を買うことになってしまいました。これが、ひいては鶴姫の運命を左右することとなったのです。

黒田氏に人質に出された鶴姫

九州征伐の完了後、秀吉は鎮房に対し国替えを命じました。しかし、祖先伝来の地を離れたくないとして、鎮房はこれを拒否してしまいます。また、新たにこの地方の領主としてやってきた黒田官兵衛とも当然ながら険悪となり、国替えの交渉もこじれ、ついには黒田氏と衝突することになってしまったのです。

ただ、何とかいったんは和睦が結ばれ、この時に鶴姫は黒田家へ人質に出されることとなりました。官兵衛の長男・長政(ながまさ)と結婚したとも言われていますが、ここははっきりしていません。

しかし、鶴姫を人質に取ったとはいえ、戦国最強軍師と言われる黒田官兵衛がいる黒田氏は、城井鎮房を完全に信用していませんでした。それどころか、将来の火種になると見込み、排除すべきという結論を出したのです。

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