平安時代日本の歴史飛鳥時代

古代日本の国防を担った「防人」とは?歴史系ライターがわかりやすく解説

日本に武士が登場するはるか以前、日本の国防は一般庶民たちが担っていた時期がありました。それが【防人(さきもり)】という制度でした。現在の自衛隊を「現代の防人だ!」と表現する人も多いのですが、当時の防人たちはそんな愛国心に満ちて自信に満ち溢れた存在ではありません。まさに国家によって強制動員され、犠牲になった人々だったという側面があるのです。今回はその防人たちにスポットを当て、誰にでもわかりやすく解説できたらと思います。

国家の盾となった防人はこうして生まれた!

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なぜ日本で防人が誕生したのか?その歴史を探ってみましょう。そこには日本という国家が外交政策に失敗し、そのツケを庶民が払わされるという構図が浮かび上がるのです。

古代には朝鮮半島で版図を拡大していた日本

現在の中国吉林省集安市に「好太王碑」という石碑があるのですが、ここには4~5世紀にかけて日本(倭)が朝鮮半島で大きな力を持っていたことが記されています。

当時の日本は半島南部にあった任那加羅を根拠地にして、百済新羅に対しても強い影響力を持つほどでした。しかし時代が下ってくると日本の勢いも徐々に衰退していき、6世紀半ばには新羅によって任那が滅ぼされたことにより、貴重な足掛かりを失うことになったのです。

また朝鮮半島内での情勢も刻々と変化していきました。中国大陸では隋が滅び、統一王朝としてが建国されると、唐は半島北部にあった高句麗を敵視し、新羅と共同で侵攻を繰り返すという軍事行動に出ました。

唐が大親分なら、新羅はまさに子分的存在。次に目を付けられたのが百済でした。新羅と百済は元々仲が悪く絶えず抗争を繰り返していたのですが、ここにきて「かわいい子分のためなら手助けしてやろうじゃないか」と唐が本腰を上げて新羅に加勢したのです。それはまるで子供のケンカに親が口を出すも同然のことでした。

660年、唐・新羅連合軍18万は一気に百済領内へ雪崩れ込み、首都が完全に包囲されてしまいます。もはや勝ち目がないことを悟った義慈王は降伏。ここに百済王朝は潰えてしまいました。

白村江の戦いでコテンパンに

国が滅亡したとはいえ百済の遺臣たちはあきらめません。なんとか百済を復興させたいと反乱軍を組織し、日本へも救援を求めてきたのです。

百済は昔からの親日国ですし、とっくに朝鮮半島への影響力を失っていた日本にとって、再び半島での権益を復活させたいという色気もあったことでしょう。中大兄皇子(のちの天智天皇)は求めを了承し、遠征軍を組織することになりました。

661~662年にかけて上毛野君稚子阿倍比羅夫らに率いられた遠征軍は海を渡りました。ところが当時の日本にはプロとしての軍事組織は存在していません。九州へ向かう先々で豪族たちの軍勢を糾合していき、5万程度の大軍を組織する形になったのですが、彼らは意思疎通もバラバラな烏合の衆に過ぎなかったのです。

百済の反乱軍を加えた倭・百済連合軍は、新羅に占領されていた地域を幸先よく解放しますが、その後に強烈なしっぺ返しが待っていました。唐・新羅連合軍は数々の戦乱を生き抜いてきた戦いのプロ集団。単なる烏合の衆に過ぎなかった日本が勝てるほど甘くはありません。

663年に起こった戦いで、海でも陸でも倭・百済軍は大敗を喫し戦力は瞬く間に壊滅。まさにコテンパンに敗北させられた挙句に日本へ逃げ帰ることになりました。

この白村江の戦いと呼ばれた一連の戦闘で、日本側は唐・新羅の強さを目の当たりにしました。やがてそれは恐怖の記憶となって内地の人々にも伝えられていくのです。

「唐・新羅が攻めてくる!」恐怖にかられた大和朝廷の対応

唐という大国の実力を甘く見ていた中大兄皇子の失政という見方が強いのですが、彼をはじめ大和朝廷の高官たちはこぞって唐・新羅の報復に恐怖しました。

「今日にも明日にも唐・新羅が我が国に襲ってくるかも知れない。何とか良い方法はないものか?」

そこで中大兄皇子は硬軟両面での方策を指示しました。まずは戦後処理をまとめた上で唐との国交回復を早急に目指す方策。その一方で、いつ攻められても対応できるように北九州、壱岐、対馬など西日本を中心に防御拠点を構築することが急がれました。

百済から亡命してきた人々の中には土木技術者も含まれていましたから、さっそく西日本各地に古代山城が次々と築城されていきました。対馬の金田城、肥後の鞠智城、大宰府を守る水城大野城、さらには東へ向かって備中の鬼ノ城や河内の高安城など、実に20ヶ所以上もの巨大城郭が誕生したのです。まだ判明していない城も含めればもっと多い可能性もありますね。

結局は唐・新羅の逆襲が起こらなかったため、それらの城郭は無用の長物と化しますが、その中には戦国時代になって再利用された城も存在しています。

国防を担う【防人】の創設

こうして防備のため各地に巨大な古代山城群が造られ、ひとまず唐・新羅に対する防衛線は完成しました。しかしいくら巨大な箱を作ったとしても中身がなければ無用の長物に過ぎません。

そこで城を守るべき兵士を配置することとなりました。とはいえ在地の豪族たちを恒久的に守らせるわけにもいかず、考え出されたのが「軍団制」の創設でした。日本各地に軍団という組織が作られますが、自ら志願してまで入隊するような奇特な人はいません。強制的な徴兵制度によって一般民衆たちが動員されたのです。

ちょうど庚午年籍という戸籍データが出来上がった時期でもあり、そのデータを基にして成年男子の3人に1人が徴兵されたといいます。

この時代の人々に果たして「愛国心」というものがあったのかどうかは謎ですが、多くの人々がイヤイヤ任地へ赴いたに違いありません。こうして都を守る兵士を「衛士(えじ)」、西日本で城を守る兵士のことを「防人(さきもり)」と呼んだのです。

「防人はツライよ」死と隣り合わせだった任務

防人創設までのいきさつを理解して頂いたうえで、では防人の任に就いた人々はどのような境遇にあったのでしょうか?具体的に見ていきたいと思います。

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明石則実