室町時代戦国時代日本の歴史

世界遺産「姫路城」はどんな歴史を歩んできた?わかりやすく解説

姫路藩立藩【白鷺城の誕生】

image by PIXTA / 29386786

姫路城の土台を作ったのは秀吉でしたが、秀吉は自分が大坂城を建築すると妻の兄である木下家定が城主となります。

そして時代は1600年の関ヶ原。この関ヶ原の戦いで東軍を率いた徳川家康が勝利し、天下は徳川家のものとなりました。

これを受けて家康はまだ徳川家に従っていない毛利家や島津家などを中心とした西国の大名が徳川家を攻めてきても大丈夫なように、姫路城を改築して西国の守りにするべきという声が上がります。

そうして1600年播磨国52万石を与えられた池田輝政に対して秀吉が築き上げた姫路城を改築するべしという命令が出され、輝政は1601年から足がけ8年かけて姫路城を改築。のべ4千万人を借り出した姫路城の改築を経て姫路城は今の白鷺城と呼ばれる白い漆喰が特徴的な白へと変貌を遂げたのでした。

ちなみに、漆喰には火を防ぐ働きがあるとされており、決して目立ちたいだけではないのですよ。

その後、姫路城を中心に姫路藩が立藩。姫路藩には徳川家に信頼された家が代々入っていくことになるのです。

江戸時代の姫路城

姫路藩には姫路周辺を統治するだけではなく、西国の大名の牽制の機能を果たしていました。そのため基本的には将軍家が信頼できる人が姫路藩を収める決まりができていくことになっていったのです。

1617年に池田輝政が亡くなり池田光政が跡を継ぐのですが、光政はこのとき幼少であり子供が西国の大名の牽制はできないと判断。そのため池田家は鳥取藩へ移動させられてしまいその代わりに桑名藩から本多忠政が15万石で入城しました。忠政はかつて家康に過ぎたるものといわれた本多忠勝の息子。信頼は抜群にありました。

本多忠政は三の丸と西の丸を整備して堀を改築して河川を作るなど姫路の大工事を行い姫路を大都市に仕立て上げます。このときに姫路城は現在の姿そのままとなりました。

しかし、姫路藩はその後信頼できる人が治めるようにするために幕府の命令でコロコロ変えられることに。本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家と目まぐるしく入れ替わり、酒井家が入ってようやく安定するまで約140年もの間安定しなかったのです。

しかも、譜代大名の悩みの種の一つ『石高が低い』の対象は姫路藩にも当てはまっており、姫路藩はその藩の役割とは見合わない15万石。毛利家は36万石、島津家が72万石と見ると非常に少ないことがわかります。

さらには幕府の役職につくと江戸に居なくてらならないため、姫路藩に藩主がいないことも多々あり、これが姫路藩の財政を悪くする原因にもなったのです。

戊辰戦争と姫路城

時代は平和な江戸時代も250年過ぎた幕末。この時代には日本は薩長土肥を中心とした新政府軍と旧幕府軍で争いが起ころうとしていました。

そしてついに鳥羽・伏見の戦いが起こり、直接対決が切って落とされたのですが、姫路藩は長年譜代大名が治めていたこともあってか旧幕府軍に味方としてつくことになります。

これを見た新政府軍は岡山藩を中心とした軍勢を姫路に派遣。姫路城付近を包囲して直接対決に打って出ることになりました。

しかも皮肉なことに子の時姫路城に攻め入った先鋒はかつて姫路城を大幅に改築した張本人である池田茂政の軍。池田氏が岡山に転封したこともあり先鋒を任されていたのですが何とも言えない展開になってしまいましたね。

こうして姫路城は新政府軍の香華ににさらされてしまう危機に追い込まれてしまいました。新政府軍は近くの景福寺山に大砲置いて姫路城に向けて威嚇砲撃。

両軍の緊張は高まり姫路城は総攻撃されてしまう状況に追い込まれてしまったのですが、この状況で北風荘右衛門貞忠という大商人が15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上。このすきに姫路藩は降伏したことによって最終的に城の明け渡しで終結。こうして姫路城は戦火にさらされることはなくなったのです。

姫路城最大の危機

姫路城はこうして戊辰戦争の戦火から逃れることになったのですが、姫路城にさらなる悲劇が訪れることになりました。1873年に発令された廃城令。廃城令は明治時代に出された法令であり、武士がいなくなったことで城の役割が無くなってしまったことを受けて城を破却したり競売にかけたりし始めたのです。

姫路城も例外ではなくら姫路城はかわいそうなことに競売にかけられてしまいました。

この競売は姫路周辺の大商人であった神戸清次郎が23円50銭(現在の貨幣価値に換算して約十万円)で落札しました

神戸は姫路城を落札して何をしようか考えたのはいろいろな説があり、陸軍と協力して姫路城を熊本城と同じ形で永久保存をするために落札したという説と、姫路城を解体して瓦や鉄などを活用して大儲けしたいという説がありますが、どちらにしても非現実的すぎるとして結局姫路城は取り残されることになり、最終的に姫路城周辺は陸軍の基地として利用されていくことになります。

姫路城周辺の地域には1874年に三の丸を中心に歩兵第10連隊が設置され、三ノ丸などを中心に取り壊されて陸軍の中心地として活用していくようになりました

一方で、明治時代初頭の大変革が一段落付いた頃には日本の城郭を保存しようという動きが見られるようになりました。そんな中陸軍の少佐の飛鳥井雅古と中村重遠が尽力。西郷従道や山形有朋に働きかけて姫路城を史跡として日本が保護を行うように変えるように申し出ました。

その結果、政府によって姫路城の修復が行われ始めていき、1908年には市民の運動もあり明治の大修理が行われるようになったのです。

次のページを読む
1 2 3
Share: