太平洋戦争と姫路城
明治の大修理終了後、姫路市は陸軍が使用していない本丸・二の丸と三の丸の一部の城域を借りて姫路市の公園である姫山公園として整備。1912年から一般公開を始めました。
これによって姫路城は陸軍の基地を置いたまま姫路城は市民の憩いの場として機能していくことになります。
1928年には姫路城は日本の史跡に指定され、さらには次いで1931年1月、大小天守など8棟と渡櫓、門、塀等74棟も国宝に指定されました。姫路城はこの時日本の遺産として認知されることになったのです。
しかしそんな姫路城にもまた悲劇が訪れることになります。いわゆる太平洋戦争です。
太平洋戦争では姫路城はその白い壁があまりにも目立ちすぎることもあり、爆撃の目標とされることがしばしばありました。
そこで姫路市民は姫路城が燃えないように黒く染めた網で城の主要な部分を覆い隠すことに。しかし太平洋戦争が日本の不利になっていき、日本各地で空襲が激化していくと陸軍の基地が置かれていた姫路もその爆撃地点となっていくことになります。
特に一番姫路の被害が大きかったのが1945年7月3日に起こった姫路空襲。この姫路空襲で姫路の街は燃やし尽くされてしまい、姫路城も消失する危機となってしまいました。
しかし、姫路城は西の丸に着弾した2発のみ。さらにはその爆弾もすぐに消火されました。肝心の天守は焼夷弾が直撃したものの、不発に終わり姫路城の天守が焼失することは免がれたのです。姫路城下はすべて焼け野原となったのですが、姫路市民のよりどころであった姫路城の大天守が燃えていなかったことは姫路市民に勇気を与えていくことになったのでした。
姫路城は世界遺産へ
戦争が終わると姫路城は、姫路のみではなく日本有数の観光地として知られていくことになります。
姫路城は何度かの大修築が行われたものの、姫路城建設から現在まで天守閣が存在していることが希少価値が高いとして1992年に日本は世界遺産条約を批准すると世界遺産暫定リストに姫路城などを記載しました。
その後、国際社会で日本が初めて提唱した姫路城は承認されていき、1993年12月11日ひ法隆寺地域の仏教建造物とともに日本初の世界遺産に登録されたのです。
その後も姫路城は観光地として世界中の観光客が訪れる都市として人気となっていきましたが、その後姫路城が建設当時に持っていた美しさを再現させるために2009年から足かけ6年かけて平成の大修理が行われました。
姫路城は今も輝きを持って存在しているのです。
姫路城の輝きは永遠に
姫路城は秀吉や家康ともゆかりが深く、城として重要な意義を果たしていました。
姫路城に観光する際にはその歴史も体感してみるのもいいかもしれませんね。