江戸後期の人気戯作家・十返舎一九の生涯
十返舎一九とは江戸時代後期に江戸の町で活躍した戯作家。「やじさん・きたさん」の旅の珍道中を描いた『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』の作者として知られています。文筆だけで生計を立てることがまだ珍しかった時代に、人気作を次々に生み出した稀代の売れっ子作家。いったいどんな人物だったのでしょうか。十返舎一九の生まれや生い立ちから追いかけてみることにいたしましょう。
もともとは武士だった?十返舎一九の生い立ち
十返舎一九は1765年(明和2年)に駿河国(現在の静岡県静岡市付近)で生まれました。
気になる本名は「重田貞一(しげたさだかつ)」。十返舎一九は後に名乗るようになった筆名(ペンネーム)です。
生家は町奉行同心。これも意外な感じがしますが、十返舎一九は下級武士の生まれだったのです。父親は奉行所で書記官の仕事をしていましたので、成人してからは父の後を継ぐべく江戸へ出るなどして奉行奉公をしていました。
19歳のとき、大阪町奉行の小田切直年(おだぎりなおとし)に仕えるべく大坂(現在の大阪)へ。役人として給料をいただきながら、専ら作家修行をしていたようです。いつ頃から作家を目指していたのかは定かではありませんが、十返舎一九は若いころから芸能志望だったようで、大坂転勤の目的もそのあたりにあったと考えられています。
そんな十返舎一九、役人をしながら、25歳のときに「近松与七」というペンネームで浄瑠璃作家としてデビュー。大坂で様々な文化・芸術に関する知識を学び、数年が経過しますが、あるとき、役人と作家、二足の草鞋では限界があることを悟ります。
安定した給料生活より、作家として生きることを選んだ若き日の十返舎一九こと重田貞一。役人を辞め、居候生活をしながら創作に励み、1794年(寛政6年)、30歳のときに江戸へ渡ります。
作家を目指して江戸へ!蔦屋重三郎との出会い
江戸へ出た十返舎一九は、江戸時代の出版界の大御所・蔦屋 重三郎(つたやじゅうざぶろう)の門を叩きました。
蔦屋といえば、当時爆発的人気を誇っていた浮世絵や洒落本などを刷って売っていた版元のひとつ。東洲斎写楽を世に送り出した人物としても知られています。重三郎は多くの出版物を手掛けるビジネスマンであり、才能あるものを見抜き育てる名プロデューサーでもありました。
十返舎一九は重三郎のもとで出版の作業を手伝いながら、自身の創作活動も続けていきます。やがて蔦屋に認められ、黄表紙(きびょうし)と呼ばれる絵本のようなものを出版したり、徐々に文筆家として開花。はじめの頃は貧乏生活だったようですが、やがて文筆業だけで生計を立てることができるようになっていったそうです。
十返舎一九は文才と画才の両方の才能を持ち合わせており、一人で字も絵も描くという器用さが、蔦屋にとっては非常に重宝で便利な存在だった模様。その後もずっと、コンスタントに新作を書き続け、次第に人気作家となっていきます。
そして1802年(享和2年)、『東海道中膝栗毛』を出版。これが大ヒットとなり、人気作家の仲間入りを果たします。『膝栗毛』シリーズは十返舎一九のライフワークとなり、20年以上に渡って続編を書き続けました。
大人気シリーズ『東海道中膝栗毛』の誕生
十返舎一九の成功の背景には、当時の江戸の人々の生活スタイルの変化が大きく関わっていたと考えられています。
江戸時代の初期の頃まで、字を読むことができる人は少なかったのです。
本などは庶民が読むものではありませんでした。
これが、江戸中期頃から徐々に変わってきます。寺子屋が普及するなどして、庶民も読み書きを学ぶ機会が増え、徐々に庶民向けの本が出回るようになっていったのです。
江戸時代より前の日本は、戦や争いが絶えず、庶民の生活は安定していませんでした。しかし江戸時代に入ると世の中は安泰に。農民たちが戦場に駆り出されることもなくなりました。こうした時代背景から、庶民の中にも学問をおさめようとする人が増えてきたと考えられています。
また、天下泰平は庶民たちを旅路へといざないました。江戸時代、空前の旅行ブームが巻き起こります。
特に流行ったのがお伊勢参りです。街道が整備されたことなどもあり、庶民の間で伊勢神宮旅が大流行。十返舎一九が生み出した『東海道中膝栗毛』も、やじさんときたさんという凸凹コンビがお伊勢参りに出かけるというもので、当時の人々に分かりやすく受け入れやすい内容だったのでしょう。
もちろん、一九に文才があったことが最大のヒット要因です。一九の文章スタイルは飾らず文才ぶらず、気さくでざっくばらん。庶民にもわかりやすく親しみやすいものだったことが、人気につながったといわれています。
実は変人?十返舎一九の晩年とは
軽快でコミカルな読み物で一躍有名になった十返舎一九。本人もさぞ、愉快な人物だったのであろうと思いきや、かなりの変人だったようです。
もっとも、『東海道中膝栗毛』を出した後は、常に締め切りに追われる忙しい日々を送っていたようで、これは現代の人気作家にも通じるところがあるのかもしれません。なりたくてなった作家という職業であっても、毎日毎日書き続けているとストレスも貯まるし書きたくなくなる日もある。出会った人に不愛想な態度を見せることもあったはずです。常に「売れる本」を書くことを求められ、プレッシャーもあったと思われます。
長年ベストセラーを書き続け、裕福な暮らしをしていた時期もあったようですが、晩年は借家住まいの貧乏生活。稼いだお金は全部酒代に消えていったのではとも伝わっています。歳をとってからも文筆は続けていたようですが、かなり荒れた生活を送っていました。
1831年(天保2年)、十返舎一九は67歳でこの世を去ります。
お墓は現在、東京都中央区勝どきの真圓山東陽院の中に。今も一九を偲んで訪れる人が絶えないのだそうです。
最後に「十返舎一九」という奇妙な筆名の由来について少しだけ。黄熱香(こうじゅくこう)というお香の原木は十度焚いても香を失わないとされており、「十返しの香」と呼ばれる名香。一九は若い頃、香道を学んでいたことがあるそうで、ここから「十返舎一九」という名前を作り出したのでは、と言われています。
滑稽本・洒落本……江戸の人々が親しんだ読み物と十返舎一九
庶民も本を読むようになり、様々なタイプの本が出回り始めた江戸中後期。十返舎一九が初期の頃手掛けていた黄表紙をはじめ、洒落本、滑稽本、人情本など、いろいろな本が作られ、庶民の間で人気となっていきました。次に、十返舎一九が活躍した江戸後期に広く読まれていた読み物にどんなものがあったのか、そして十返舎一九の代表作『東海道中膝栗毛』とはどういうものなのか、駆け足ではありますがご紹介いたします。
滑稽本:ズッコケ面白話が江戸っ子たちに大ウケ
滑稽本(こっけいぼん)とは、面白おかしい話を主体とする俗小説の一種です。
江戸後期に確立した形態と言われており、当時は「中本(ちゅうぼん)」と呼ばれていました。
堅苦しくない、会話主体のわかりやすい文体で書かれたもので、話の内容も他愛もないものがほとんど。言葉のひっかけやダジャレ、ちょっと下ネタっぽい話題も絡めて庶民の笑いを誘うという、現代の漫才やコントの源流になるものと考えてもよさそうです。
江戸時代の人々は暮らしの中に笑いを求めていたのかもしれません。
当時は「読本(よみほん)」と呼ばれる物語も広く出回っていましたが、こちらはストーリー性を重視したものが中心で、難しい単語や漢字もたくさん使われていて少し難しい印象のもの。それに比べると滑稽本は、文学の知識が乏しくてもさらりと読めて、誰でも書けるという親しみやすさが人気でした。
まさに、十返舎一九の真骨頂です。
滑稽本の代表作とされているのが、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』。さらに、一九より少し後に活躍した式亭三馬(しきていさんば)という人も滑稽本の作者として知られています。