幕末日本の歴史江戸時代

「藩校」とは一体どんな学校?歴史系ライターがわかりやすく解説

松平容保も学んだ会津の学び舎【日新館】

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石井伯和(Norikaz Ishii / User:Chiether) – Facilities: Nisshinkan.jp / Photography by myself(User:Chiether), CC 表示-継承 3.0, リンクによる

会津藩初代藩主保科正之が、庶民のための学問所として「稽古堂」を設立したことを始まりとしています。江戸時代中期の天明年間頃から、飢饉や災害などが頻発し、会津でも様々な問題が噴出していました。

そこで諸問題を解決するべく、藩政改革並びに人材育成の一環として1803年に「日新館」は完成しました。しかし藩財政が厳しい折り、資金調達はなかなか難しかったようで、役人だけでなく日新館の教授や生徒までが草鞋を履き、建設に勤しんだといいます。

上士以上の藩士子弟が10歳から入学を義務付けられており、京都守護職として活躍した松平容保も幼少の頃から日新館で学んでいたそうです。またほとんどの子供たちは、日新館入学前から寺子屋などで素読を済ませており、非常に教育熱心な藩だったといえるでしょうね。

現在の日新館は、多くの人たちが訪れる観光スポットになっていて、座禅や茶道などの体験をしたり、会津の子供たちが学んでいた「什の掟」の講話が聴けるなど、会津藩の気風が感じられる場所になっています。

また武道場や弓道場などを一般開放していて、宿泊も可能ですから合宿での利用も可能です。(ただし10人以上)

新時代を牽引した偉人たちが学んだ場所【明倫館】

萩明倫館・有備館
Kuru man, CC 表示 2.0, リンクによる

長州藩の藩校「明倫館」は、幕末の頃に2校存在していました。藩庁移転に伴って完成したのが山口明倫館なのですが、それ以前に萩明倫館が萩城三の丸に隣接していたといいます。どちらかと言えば萩明倫館のほうが有名ですね。

1719年に5代藩主毛利吉元が、家臣の子弟教育のために明倫館を開きました。その後は拡張を続け、その敷地は5万㎡もあったそうで、武芸修練場や水練場、練兵場などが整備されていたそうです。水練場とは現在でいう巨大プールのことですね。

幕末や明治にかけて活躍した多くの偉人たちを輩出しており、井上馨高杉晋作、木戸孝允らも明倫館の出身となっています。また、同じく卒業生の吉田松陰や、初代群馬県令となった楫取素彦らも明倫館で教鞭を取ったそうですね。

往時の建造物としては、聖賢堂南門、観徳門などが市の有形文化財に指定されていて、剣術場だった有備館は国指定史跡となっています。

また藩校跡にはかつての明倫小学校が建っており、2014年まで小学校として使われていました。現在は1935年建造の木造校舎がそのまま残っていて、展示室や観光インフォメーションセンター、レストランとして有効活用されています。

個性を伸ばす教育方針が開花【致道館】

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現在の山形県鶴岡市にあった庄内藩は、譜代大名といえども長年財政難に苦しんだ藩でした。第7代藩主酒井忠徳は名君と呼べる人物で、藩のあまりの貧乏ぶりに涙を流す場面がありつつも、財政難にしっかり正面から取り組みました。

豪商本間家を中心として財政改革に取り組み、数年後には借金をすべて返済したばかりか余剰金を生み出すことにも成功しました。その甲斐あって天明の大飢饉では一人の死者も出さなかったそうです。

また人材の育成にも力を注ぎ、1805年に完成させたのが藩校「致道館」でした。多くの諸藩が幕府の推奨する朱子学(儒学の一派)を藩学とする中で、庄内藩は荻生徂徠が提唱した徂徠学を掲げました。徂徠学とは、古い書を直接続むことによって、後世の註釈にとらわれずに孔子の教えを直接研究しようとする学問のことで、藩政改革を成功に導く基礎となりました。

致道館の学風は、詰め込み教育を良しとせず、身の丈に合った個性に応じた才能を伸ばすこと。そのため試験に合格さえすれば、年齢や修学年数に関係なく進級できましたし、もう少し学びたいと思えば進級しないことも可能でした。

また自ら考え学ぶことを意識させるために、自主学習に重きを置いたことも大きなポイントです。その代わり課題と期限を決めた上で、学習の成果を発表し、皆で討論することも常だったそうですね。

現在の致道館は、往時の半分ほどの敷地面積が残っており、表御門、西御門、東御門などの遺構や、講堂、聖廟、御入間などの建造物が残されています。いずれも国の史跡に指定されていますね。

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明石則実