日本の歴史江戸時代

浄瑠璃に革新をもたらした脚本家「近松門左衛門」と作品を元予備校講師がわかりやすく解説

江戸時代の中期、16世紀後半の5代将軍徳川綱吉の時代は元禄時代とよばれます。天下泰平となってから既に半世紀。人々は平和と経済的繁栄を享受していました。この時代に生き、人形浄瑠璃作家として数々の名作を送り出したのが脚本家の近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)。近松は竹本義太夫とタッグを組み、名作を次々と世に送りましました。今回は元禄時代に生きた近松門左衛門の生涯と近松の作品などについて、元予備校講師がわかりやすく解説します。

近松が生きた元禄時代

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16世紀半ば、4代将軍家綱から5代将軍綱吉にかけて、武力を背景とした武断政治を改め朱子学などの学問を重視する文治政治が行われました。戦争のない平和な状態を背景とし、経済活動が発展。江戸や大坂、京都といった都市が発展します。その結果、文学や絵画などの芸術活動も盛んになりました。この時代の文化を元禄文化といいます。今日の主人公である近松門左衛門は元禄時代の代表的な文学者の一人でした。

朱子学を重視した5代将軍綱吉の政治

1680年、5代将軍に就任した徳川綱吉は、兄の家綱が始めた文治政治を継承します。綱吉が統治した時代を、元号から元禄時代といいました。

1683年に綱吉が出した武家諸法度天和令では、武家諸法度第一条で、大名が重視すべき事柄は「文武忠孝」であるとし、それまでの「文武弓馬」という武力を意識した文言を変更。忠孝の重視は朱子学で強調される内容とします。このことからも、綱吉が武力ではなく学問を重視したことが伺えますね。

また、綱吉時代といえば「生類憐みの令」が出されたこともよく知られています。極端な動物愛護といわれ、犬を保護する施設を維持するため江戸の町人や農民に特別税を課したことからあまり評判がよくありませんが、捨て子や病人を捨てる風習を根絶させるなどプラス面もありました。

活発な経済活動と都市の繁栄

元禄時代を含む江戸時代前期は農業生産力が大幅に上がった時代です。主食であるコメはもちろんのこと、国内各地で商品作物が栽培されます。

商品作物は全国で取引され、それらを原料とした手工業も発達しました。そうなると、物流も活発化します。江戸と大坂を結ぶ南海路、大阪から下関を経て日本海側や蝦夷地に延びる西廻り航路、江戸から東北の太平洋沿岸、蝦夷地に向かう東回り航路が発達しました。

中でも、蝦夷地と京・大坂方面を結ぶ北前船は江戸時代を通じて重要な交易ルートとして蝦夷地や東北地方の産品を上方(京・大坂)に運びます。

政治の中心であり武士人口が多い消費都市の江戸、物資が集まり商業の中心として発達した大坂、朝廷があることで公家中心の文化が残り、伝統産業が根付く京都は、江戸時代の三都として栄えました。

経済発展のおかげで花開いた元禄文化

元禄時代、経済の中心は大坂でした。大阪は天下の台所とよばれ活気にあふれた街になります。大坂には諸大名が構えた蔵屋敷があり、集まった物資を取引する大商人たちが富を築き上げました。

富を得た上方の豪商たちは、芸能活動に多くの資金を提供。その結果、豪華で人間性を追求する元禄文化が生まれました。

元禄文化ではこの世を「浮き世」と表現します。江戸時代以前、世の中は生きにくい「憂き世」と考えられていましたが、平和が続き経済的に反映する元禄時代では浮かれて生きられる「浮き世」になったという意味合いが読み取れますね。

元禄時代の三大文学者といえば、町人の生き様や男女について描いた井原西鶴、「奥の細道」で有名な俳人の松尾芭蕉、そして今回紹介する人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本家、近松門左衛門です

近松門左衛門と浄瑠璃の関り

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近松門左衛門は福井藩の武士の子として生まれました。父が藩を辞め浪人となったことをきっかけに一家は京都に移り住みます。その後、人形浄瑠璃の脚本家としてデビューした近松は深いかかわりを持ち続ける竹本義太夫と知り合いました。近松と竹本義太夫のコンビは道頓堀の竹本座で次々と人形浄瑠璃のヒット作を出します。

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