藩校では何を学んでいた?
藩校ではいったいどのようなことを教えていたのでしょうか?そこには江戸時代を生きる武士たちの立ち位置や考え方が如実に表れているのです。具体的に見ていきましょう。
武士とは、文部両道を究めるもの
戦国の長い戦乱の時代が終わって平和な時代がやってくると、全国の大名(藩主)たちは地方行政官としての役割を担うようになりました。天皇の政務代行者たる幕府が、全国の藩主に「土地と民」を管理するよう命じたのです。ここでポイントとなるのは、土地や民は藩主の所有物ではないということ。あくまで預かりものだということです。
そのため藩主や藩士たちは、民の模範たる必要がありました。もし一揆など民の反発が起これば、それは藩の監督不行届ということになり、減封や改易などの重い処分が課せられたのです。いわゆる民の不満の原因は「藩の怠慢が原因だ」だとされたわけですね。
そのような事情から、学問を知り、民の便をはかり、広く古今の事跡を知り、人情に通じ、清廉に身を修めることが政治にとって重要だとされました。「民から尊敬されなければ良い政治はできない。」ということです。
そのような人材を登用するためには、外部から招聘するという手段もありましたが、そんな清廉潔白な人材が吐いて捨てるほどいるわけではありません。そこで藩内に学校を作って優秀な人材を育成し、藩政に役立てようという動きが起きました。やがて全国へその動きは波及していくのです。
最初に藩校を設立したのは岡山藩で、1669年に藩主池田光政によって「岡山学校」が作られました。光政は非常に教育熱心だった人で、庶民向けの教育機関として「閑谷学校」を設立したことでも有名ですね。
それより遅れること100年。幕府も「昌平坂学問所」を設立するなど、人材の育成に力を注ぐこととなりました。この昌平坂学問所を卒業した人材たちが、やがて各藩の藩校へ教授として赴任していくことになるのです。
江戸時代の武士は、本来の武道を究める事だけではなく、学問も身に付けねば、立身出世は到底望めませんでした。
藩校は、現在でいう中高一貫教育だった
藩校は基本的に藩士の子弟を目的としていますが、明治維新後には庶民の入学を許可した藩校もありました。入学や卒業時の年齢は規定されていませんでしたが、おおむね7~8歳程度で入学する場合が多かったそうです。幼年の頃に初等教育(今でいう小学校)を済ませ、そのままエスカレーター式に学習する内容も難しくなっていったと思われます。卒業する年齢としては、20歳前後の場合が多かったそうですね。
学習内容については、藩によって多少の差異はあったようですが、幕府老中松平定信が昌平校で制度化した「学問吟味」や「素読吟味」をひも解けば、おおよその内容は判明してきますね。
素読吟味は満15歳未満の子弟が学ぶべきものであり、まず8~10歳までが「四書」の素読に始まります。四書とは「論語」「大学」「中庸」「孟子」といった儒学の経書のこと。素読とは書いてある文字をそのまま読み上げることです。声に出して読めば、理解力が高まるという効果があるとか。
そして11~15歳までが「四書」及び「五経」の素読となります。五経とは、これも儒学の教書の総称で「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」のことを指すのです。
15歳以上になると学問吟味を受けられるようになり、儒学や朱子学の模範教書となる「論語」や「小学」を学ぶようになります。やがて初等試験を合格すると、次に歴史や作文などを学び、所定の試験を受験できる資格を持てるのです。
藩校が全国に拡大するよになると、この松平定信が規定した「昌平校モデル」がスタンダード化していきました。
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より高等化・複雑化していく藩校学習
幕末期に近付くにつれて、藩校で教える講義の内容も高等化・複雑化していきました。海外から入ってきた洋学や医学、進歩しつつあった兵学・軍学などを学ぶ必要性があり、従来の儒学だけでなく、時代に即した学習内容が求められたのです。
具体的な例を挙げれば、医学一つを取っても「博物学」「化学」「解剖学」「厚生学」「病理学」「薬剤学」「治療学」など多岐にわたる分野がありますし、兵学・軍学についても、中国古来の「武経七書」以外に「歩兵程式」や「野戦要務」といったオランダやフランス渡りの最新軍学を学ぶ必要がありました。
従来の儒学や漢学だけを学んでも、時代遅れになるだけだという各藩の思惑が透けて見えますね。
いっぽう史学の講義内容に関しては、国学の隆盛ぶりに伴って皇朝学が一般的でした。「皇朝史略」や「大日本史」、「古事記」や「古道訓蒙頌」などが主な教材とされていたようです。「日本の歴史は天皇と共にある」という主観は、天皇の代理政権だという幕府の立ち位置に合致していたものでしたが、皮肉にも幕末の尊王攘夷運動として花開くことになるのですね。
多くの偉人を輩出した藩校を見ていこう
藩校は全国で270もあったわけですが、その中でも有名かつ建造物も現存している藩校をご紹介していきましょう。やはり特徴としては、「お城」と「藩校」がセットになっているところでしょうか。