尊攘派の志士として活動した若き日の井上馨
井上馨は長州藩の中級藩士の家に生まれました。井上家は毛利氏が安芸国の国人だったころから仕えた名門です。若いころ、井上は尊王攘夷の思想を奉じ、イギリス公使館の焼打ちに参加しました。しかし、ヨーロッパに留学した井上は日本が目指す方向は尊王攘夷ではなく、開国して外国文化を吸収し日本を近代化させる富国強兵路線だと気が付きます。
井上の生い立ち
1836年、井上馨は周防国(現在の山口県)に生まれました。井上家は100石取りの中級藩士です。幼名は勇吉。1851年、兄とともに長州藩が開いた藩校の明倫館で学びます。萩にあった明倫館は井上のほかに高杉晋作や吉田松陰、桂小五郎(のちの木戸孝允)、乃木希典などを輩出しました。
一時、井上は同じ名門家臣の志道家に養子に出されましたが、しばらくして井上家に復帰します。藩主敬親が参勤交代で江戸に向かうと、井上も藩主にしたがって江戸に行きました。江戸では、ともに幕末・維新を駆け抜けることになる伊藤博文と出会います。
1860年、江戸で桜田門外の変が発生。藩主の身辺警護を強化する必要に迫られたことから、井上は藩主の小姓となります。この時、敬親から聞多の名を与えられました。江戸滞在中、井上は江川太郎左衛門(英龍)から蘭学を、斉藤弥九郎から剣術を学びます。
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イギリス公使館焼打ち事件
日米修好通商条約が結ばれ、日本と外国の貿易が本格的に始まりました。日本の商人たちは開港場に設けられた居留地にいる外国商人に様々な品物を売ります。外国商人は日本の生糸を大量に購入。その結果、日本の物価は上昇しました。
また、外国商人は日本と外国で金銀の交換比率が違うことに着目。外国から銀を持ち込み、日本から金を大量に持ち出します。慌てた幕府は金貨である小判の価値を下げ、外国と交換比率を同じようにしました。お金の価値が急激に落ちたことで物価上昇がさらに激しくなります。
人々は、開国によって以前より生活が苦しくなったと感じました。外国人を追い出し、天皇中心の世の中を作るべきだとする主張を尊王攘夷運動といいます。その一環として、長州藩士高杉晋作や井上馨、伊藤博文らは御殿場に建設中にイギリス公使館を焼打ちしました。
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