住居は?生活の様子は?何を食べていた?縄文時代の基礎知識
縄文時代(じょうもんじだい)とは一般的に、石器時代から弥生時代に入るまでの1万年ほどの期間のことを指しています。具体的な年代については様々な見解がありますが、紀元前14000年頃から紀元前10世紀頃まで。年代だけでなく、出土品などによって分類することもあるため、別の視点で年代を分けることもあるそうです。この長い期間、日本にはどんな人々の暮らしがあったのでしょうか。縄文時代の生活の様子、覗いてみましょう。
縄文時代とは?なぜ「縄文」なの?
縄文時代の「縄文」とは「縄紋」、つまり縄模様が施された土器の名称からきています。
1877年(明治10年)、アメリカ人の動物学者モース博士が横浜から都内へ向かう途中、大森周辺で貝塚を発見。このときの調査で博士は、縄目を押し付けて作ったと考えられる文様を持つ土器を発掘。「cord marked pottery」と報告しています。ただ土を練って作っただけでなく模様をつけたところが印象的だったのかもしれません。
この単語を、後の日本の歴史家たちは様々な言葉を使って日本語訳します。そのうちのひとつ「縄紋」が、後に「縄文」となり、「縄文土器」というの呼び方が定着したのです。
この縄文土器が使われた時代を「縄文時代」と呼ぶようになり、その呼び方が歴史区分として定着しました。
年代だけで見ると、石器を使って生活していた石器時代(後期の新石器時代)と重複する可能性も示唆されています。なかなか「〇年から〇年までが石器時代で、〇年からが縄文時代」ときっぱり分けることができないのが悩ましいところです。
縄文時代の人々はどんな家に住んでいたの?
この時代、もちろん文字の類はまだ存在していません。どんな暮らしをしていたのかについては、遺跡からの出土品から想像する意外に方法はありませんが、それでも多くの人々による長年の研究から、様々なことが分かっています。
1万年以上もの長い期間を指す時代区分ですから、前半と後半で暮らしぶりも大きく変わっていたはずです。地形や気候の変化もあったでしょう。ひとくくりにすることは難しいですが、おそらく1万年ほど前には、氷河期が過ぎて気候が安定し、獲物を追う移動生活から定住生活が始まったものと考えられています。
縄文時代の住居の形状は竪穴式住居が主流です。
竪穴式住居とは、地面に穴を掘って柱を建て、萱や葦などの植物で覆った建物のこと。「半地下物件」といったところでしょうか。これならば地面の上に柱を建てるよりはるかに安全で、雨風をしのぐことができる丈夫な住居を構えることが可能です。
穴の深さは地域や時代によって様々ですが、4~5m掘った痕跡も見つかっています。穴の形状も、円形であったり四角形であったり、作り方も多種多様。縄文時代の人々は、より造りやすく住みやすい住居の形を、実際に造りながら模索していたのかもしれません。
縄文時代の人々はどんなものを食べていた?
食事は地域によってさまざま。その地方で採れるものが中心です。
まだ、作物を栽培するという考え方はなかったので、野山で木の実を収穫したり、川や海で魚や貝を採ったり、鳥やウサギなどの動物を捕獲して食べたりしていたものと思われます。
先ほど述べた大森貝塚も、縄文時代の人々の生活の痕跡です。
狩猟だけでなく、木の実などを採って食べるためには、そのままでは固いので、すりつぶしたり火を入れる必要があります。そこで登場するのが土器です。縄文時代の人々は、収穫してきた山の恵みを食べるため、鍋窯や食器の役割を果たす器をたくさん作って使っていました。時代が進むと、木の実をすりつぶした粉と水を練ってクッキーのようなものを作って食べていた痕跡も。いつの時代も「食べる」という行為は、生きる力につながります。縄文時代の人々も、ただ空腹を満たすだけでなく、食べることを楽しんでいたのかもしれません。
縄文時代と弥生時代の違いは?
弥生時代の「弥生」は、現在の東京都文京区にある地名から。弥生町という町で発見された貝塚から見つかった土器から来ています。
いつまでが縄文時代で、いつからが弥生時代か……。この年代区分にも様々な見解があり、一概に「〇年から〇年まで」と言い切れないところがあります。年代で区切るべきか、生活スタイルや出土品の様式で分けるべきか、現在でも議論が続いているところです。
年代はひとまず置いておいて、縄文時代と弥生時代の大きな違いを考えると「稲作」というキーワードが浮かび上がります。狩猟生活から水耕栽培へ。食べ物を求めて移住する必要もなくなり、家や生活スタイルも大きく変わります。この境目が、縄文時代と弥生時代の境目であると考えられているのです。
ではいつ頃日本に稲作が伝わったのか?紀元前5世紀頃という説もあれば、もっと昔から稲作をしていた可能性を示唆する遺跡も見つかっています。稲作の伝来ルートもいくつか説が。いずれにしても、情報伝達の手段の乏しい先史時代のこと。日本のどこかに伝わった稲作が日本各地に広まるまでに数百年はかかるはずです。
さらにもうひとつ、稲作を行うには、ひとりではなく集団で協力体制をとる必要があります。そこが狩猟生活と異なるところ。速く走れても体力があっても、それだけではお米は育ちません。そこで生まれてくるのが上下関係。弥生時代に入ると、集団(ムラやクニ)がたくさんできて、人はそれぞれ役割を持つようになります。そこには自然と、身分の格差も。人々はリーダーを中心に組織を作り、時には近くの集落と戦うこともありました。
狩猟中心の個の集まりの生活から、稲作を生業とした集団生活、そしてクニづくりへ。縄文時代と弥生時代の違いは、そんなところに現れています。
縄文時代の暮らしぶりを見学したい!おすすめの遺跡3選
1万年も前の遺跡なんて……と思いきや、見てみると意外と面白いのが先史時代の遺跡の興味深いところです。日本全国に、縄文時代のものと思われる遺跡はたくさん見つかっていて、今も鋭意研究が進められていますが、今回はその中でも特に有名なスポットをえりすぐってご紹介します。どの遺跡も見応えあってオススメです。
日本を代表する縄文遺跡「三内丸山遺跡」(青森市)
三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は青森県青森市南西部に広がる丘陵地帯に位置しています。縄文時代前期から中期頃の大規模集落です。
この場所に遺跡があることは、400年ほど前から既に知られていました。弘前藩の記録の中にも、この一帯で土偶が発見されたことが記録されているのだそうです。
1990年代に入ってから本格的な調査が行われ、敷地内から巨木を使った太い柱が数本見つかるなど、想像以上に大きな建物が建てられていた可能性が出てきて大変話題になりました。
寒い地方ではありますが、かなり長い期間、この地に多くの人々が暮らしていたものと考えられています。
広い敷地の中には、竪穴式住居や高床式の倉庫など建造物が復元されており、数千年前の情景に思いを馳せることが可能。近くには出土品が展示されている縄文時遊館もあり、見応え満点です。