室町時代戦国時代日本の歴史

キリスト教迫害から一転キリシタン大名となった「有馬晴信」とは?波乱の生涯をわかりやすく解説!

冷酷非道な龍造寺隆信に恐怖

相変わらず、龍造寺隆信の勢いは衰えるところを知りませんでした。しかし、従っていれば安泰というわけでもなかったのです。というのも、隆信は非常に猜疑心が強く、冷酷な仕打ちをすることは珍しくありませんでした。

この頃、薩摩(鹿児島県)を拠点とする島津氏が、大友氏を破って勢いを増してきます。隆信に従っていた豪族たちの中には、そちらへと寝返る者たちも出てきました。かつて城を追われた隆信を保護してくれた家もその中に含まれおり、そこには隆信の娘が嫁いでいたのですが、隆信はその家を皆殺しにするという恐ろしい仕打ちを下します。

こんな隆信の姿を目にして、晴信もまた恐怖と失望を日に日に膨らませていったのでした。

龍造寺から離反し、島津を頼る

天正12(1584)年、晴信はついに、島津氏と通じるという決断を下します。それを知った隆信はすぐに出陣し、晴信の領地に侵攻してきました。

この大ピンチに、晴信は島津氏に援軍を要請します。当主・島津義久(しまづよしひさ)弟の島津家久(しまづいえひさ)を援軍として派遣しました。しかしその数は両軍を合わせても約6千。龍造寺軍は何と2万5千もの大軍勢でした。

晴信の心配をよそに、島津家久は積極的な戦を主張し、戦場を沖田畷に定めます。そしてついに両軍が決戦の時を迎えたのです。

沖田畷の戦いで大勝利をおさめる

沖田畷の「畷」とは、湿地の中に伸びた小道という意味でした。家久は退却を装って龍造寺軍をここに誘い込み、伏兵が弓と鉄砲の一斉射撃を加え、龍造寺軍を大混乱に陥れたのです。晴信率いる有馬勢は別方向から大砲を使って攻撃を仕掛けました。おそらく、この大砲は貿易によって手に入れたものでしょう。キリシタン大名となった利点がここで大きく活きたのです。

有馬・島津連合軍の攻撃の前に、慌てふためいて湿地に入り込む者が続出した龍造寺軍は壊滅状態に陥り、隆信もまた乱戦の中で討ち取られ、沖田畷の戦いは連合軍の大勝利に終わったのでした。

日野江藩主となるが…半ばだまされて破滅を迎える

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豊臣秀吉、そして徳川家康とうまく世を渡って来た晴信ですが、江戸時代に入るとにわかに雲行きが怪しくなってきます。自身が派遣した貿易船の船員が、マカオで諍いとなりポルトガル側に鎮圧されたことをきっかけに、彼は策謀や嘘の渦に巻き込まれていくのです。思わぬ最期を迎えることとなった晴信の後半生を、見ていきましょう。

豊臣秀吉、徳川家康の時代を泳ぎ渡る

九州の覇権は島津氏のものとなるかに思われましたが、天下をほぼ手中に収めた豊臣秀吉による九州征伐が始まると、島津方は一転、不利な状況に追い込まれました。

島津氏と通じていた晴信でしたが、同じ九州のキリシタン大名・小西行長(こにしゆきなが)の仲介によって秀吉側に転じ、領土を保証され、処罰を受けることはありませんでした。

この後秀吉に従うようになった晴信は、秀吉の朝鮮半島への侵攻時には西洋式の最新武器を装備して臨むなど、存在感を発揮します。その後の関ヶ原の戦いでは、当初は西軍でしたが東軍に転じ、小西行長を攻めました。そして、初代日野江藩主となり、太平の江戸の時代を悠々自適で生き抜くことになるかと思われたのですが…。その後の晴信の運命は、思いもかけない方向へ転がり始めるのです。

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