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家康をも震撼させた!日本一の兵「真田幸村」の獅子奮迅の働きぶりを徹底解剖

大坂夏の陣で一躍名を馳せた戦国武将「真田幸村(さなだゆきむら)」。赤備えで徳川家康の本陣に突撃した、死をも恐れぬ戦いぶりは「日ノ本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称えられました。「真田幸村」の波乱万丈の人生を、知恵者として戦火の危機を潜り抜けた活躍を交えてひも解いてみたいと思います。

1.武田家家臣「真田家」に生まれた真田幸村

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By 不明上田市立博物館所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

戦国時代は天下を狙う大名たちの器量を見て、小さな地方の豪族たちが誰についたら有利かを考え目を配っていた時代です。武田家に仕え領民に慕われていた真田家も小さな地方豪族のひとつでした。「幸村」は真田家の次男として生まれています。大坂夏の陣で絶命するまでの49年の人生を真田家と自身の名誉のために生き、「戦国時代最後のヒーロー」として後世に名を残しました。

1-1「日本一の兵」真田幸村誕生

信濃国(しなののくに・長野県)を治めた真田昌幸(さなだまさゆき)の次男として、永禄10(1567)年に生まれたのが幸村です。真田家は小国ながらも昌幸の優れた知謀のもと、生き残りをかけてゲリラ戦を繰り広げました。豪族の中でもしたたかな処世術ぶりが有名となり「表裏比興の者」と呼ばれ一目を置かれる存在だったのです。

真田幸村の本名は「真田信繁(さなだのぶしげ)」。甲斐国の府中で誕生し、幼名は「弁丸(べんまる)」、元服後は「源次郎(げんじろう)」と名乗っています。幸村誕生のころ父昌幸は国を追われ甲斐国を治めていた武田信玄に仕えながら、郷土奪回を狙っていました。

幸村は武将としての義理と人情を重んじながら、死をも恐れず何事にも勇猛果敢に立ち向かう性格で、家を一番に考える父昌幸と兄信幸(のぶゆき・後の信之)に頼られる存在でした。幼いころから先見の明があり昌幸からは、兄の信幸より上手と思われていたとか。幸村の名を生前に使っていたという記録はありませんが、ここでは江戸時代に講談や編纂物から広まり、一般的に知名度の高い「真田幸村」で統一します。

2.お家のために送られた人質人生

image by PIXTA / 7075482

家を重んじる真田家では、当主といえども安泰に暮らすことはできませんでした。父昌幸には、4人の息子と7人の娘がいたようです。歴史上に登場するのは、主に後継ぎの信幸と次男の幸村ですが…。

幸村も戦国武将には常だった、人質を経験しています。他と違うのが幸村の生き方。人質になっても悲観することなく前向きに捉え、出会う人から多くのことを学んだようです。

2-1上杉景勝の人質となる幸村

天正13(1585)年に武田氏が滅亡すると、周辺強国の上杉、北条、徳川に囲まれた小国の真田は危機に陥ります。北条への沼田城の引き渡しを巡り、当時仕えていた徳川家康との関係が決裂し戦となりました。上杉景勝との好条件の和睦による同盟の話しが持ち上がり、父昌幸がその話にのったのです。好条件とは、沼田と吾妻領の安堵と、実力次第では新しい領地を与えるというものでした。和睦のために、幸村は上杉景勝のもとへ人質に出されます。家康と一戦を交えるなら、他の大名とも仲良くなっておかなければとの昌幸の考えからでした。

「人質=いつ殺されてもおかしくはない立場」というのが、本来の姿。でも、幸村は凡人にはない魅力を持っており、上杉景勝のもとに人質に出された時にも、家臣と並ぶほどの厚遇を受けています。しかも、幸村は信濃国屋代(1000貫文)を領地として貰い受け、上杉家のもとで人質でありながら領主となったのです。幸村の本心は武士として父と兄と共に家康と戦いたかったはず。でも、真田家のため必死にこらえ、頼りになる忍者5人を含む家来100人を連れて人質となりました。

2-2上杉家の人質で学んだこと

上杉家には軍師「直江兼続(なおえかねつぐ)」という、優秀な部下がいました。兼続は、本を読むのが好きで、博学のインテリ。養父上杉謙信(うえすぎけんしん)に、軍師としての力を認められた人物です。謙信の後を継いだ上杉景勝(うえすぎかげかつ)は、不肖の二代目というレッテルを張られています。上杉家が生き残れたのは、景勝がぶれずに兼続を上手く利用してお家を守ったからという見方もあるようです。

「上杉家を支えているのは、景勝ではない。軍師直江兼続がいるからこそ。」と、世間の評判となっていました。景勝の偉いところは、「上杉には、兼続という腕利きの軍師がいるから迂闊に手を出せない。」と、いわれることに誇りを持っていたこと。だからお家繁栄につながったのでしょう。

そんな、景勝は人質の幸村に、「世間の評判では、上杉は兼続で持っているといわれているがどう思う?」と、頻繁に愚痴っていたとか。幸村は、主の面倒見がよく聞き上手の、人質だったのかも。幸村は、景勝の優柔不断な性格を熟知しサポートする兼続の軍師としての活躍ぶりが、羨ましかったのではないでしょうか?

2-3秀吉の人質となる幸村

徳川家康は、秀吉と和睦し力をつけました。真田が沼田城を巡って対立していた北条氏とも同盟を結びます。幸村が上杉の人質だったとしても、真田家は完全八方ふさがりでした。上杉だけでは力不足と考えた昌幸は、秀吉の配下になることを決意。上杉家へ人質に出されていた幸村は急遽真田に戻され、父昌幸と兄信幸と共に秀吉に仕えるため上洛しました。

秀吉に真田家の誠意が伝わり大名になることを許され、真田と沼田、吾妻領を安堵されました。秀吉に気に入られた幸村は、そのまま人質にされています。元々昌幸は、幸村を秀吉の人質とすることを決めていました。この昌幸の行動には景勝は激怒し、秀吉に幸村を返してほしいと願いましたが、秀吉は断っています。さすが秀吉に「表裏比興の者」と呼ばれただけあり、油断なりませんね。幸村の持ち前の頭の良さを見抜いた秀吉は、当時後継ぎのいなかったこともあってか幸村が人質になって2~3日で「わしを父と思うがよい」といったとか。秀吉の人質だったころに、重臣「大谷吉継(おおたによしつぐ)」の娘「竹林院(ちくりんいん)」を妻に迎えています。

秀吉が北条を滅ぼした、小田原征伐が起こりました。きっかけは、北条氏が真田家の名胡桃城(なぐるみじょう)を奪ったことです。関白になった秀吉は、「惣無事令(そうぶじれい)」を出しており、大名同士の争いを禁止し、領土の分配は秀吉が行うとしていました。その掟を北条氏が破ったとして征伐したのです。小田原征伐の時、独眼竜政宗こと伊達政宗が白装束で秀吉のもとに出向き降伏しており、秀吉は全国統一を遂げています。20代だった幸村には、政宗の姿はカッコよく映り、政宗のようになりたいと思ったようです。

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