日本の歴史

日本のお金の歴史雑学!お札はいつから?「円」の由来は何?

元号が新しくなったり、時代の節目節目になると改めて注目されるのが「お金」。普段あまり考える機会の少ない硬貨やお札について、じっくり考えてみるよい機会です。日本のお金はいつ頃から使われるようになったのか、昔はどこでどのようにしてお金を作っていたのか……。今回は日本のお金の歴史について、詳しく解説してみたいと思います。

日本最初のお金は?近世までのお金の歴史をざっくりチェック!

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現在の日本のお金の単位といえば「円」ですが、時代劇などを見ると「両」や「銭」といった単位がよく登場します。悪代官の登場シーンには金色に輝く小判の姿も。一方、小銭を投げて悪党を成敗する岡っ引きが登場する時代劇もあります。日本では、お金はいつ頃から使われていたのでしょう。長い長い日本の歴史の中でいつ登場して、どのような変化を遂げていったのか、お金の歴史を紐解いてみましょう。

お金はいつ頃から作られていた?先史~古代のお金事情

大昔、縄文時代や弥生時代の日本にはまだお金らしきものは存在しておらず、人々は物々交換で必要なものを手に入れていました。

完全な自給自足では手に入らない品物との交換、例えば野菜と魚などを交換し合うことで、人々の暮らしはより豊かになっていったものと思われます。

しかし、顔見知りや気心のしている者同士ならよいですが、他の集落の人々と品物を交換する場合、双方の品物の価値が釣り合わない可能性も。公平な物々交換は難しいものです。でも、自分が持っていないものを手に入れるためには、誰かと交換せざるを得ません。

そこで人々は考えました。「誰と交換しても価値が同じものと交換すればよい」と。

みんなが欲しがるもので、誰にとっても同じ価値があって、それでいて、腐ったりかさばったりせず交換しやすいもの。例えば金や銀などの金属や、布、穀物などがそれにあたります。

海外では、色のきれいな石や貝殻などを使い、数を決めて品物と交換している地域もありました。これなら、前もって石や貝を持っておけば、いつでも好きなものと交換することが可能。「貨幣」「財産」「貯蓄」「購買」「資産」など、お金にまつわる漢字に「貝」の字が使われているのは、古代中国で貝をお金の代わりに使っていたためと言われています。

どんなものを物々交換の基準に使っていたか、文書として残っていないことが多いので詳細は不明です。しかし国や地域によってさまざまな違いがあると考えられています。

人口が増え、様々な作物が作られるようになると、石や貝、鉄製品よりもっと確かな「均一な価値を持つ品物」が必要に。貝や石では長い間持っていると欠けたり割れたりしますので、より丈夫なものが求められるようになります。

和同開珎誕生!日本で最も古いお金とは?

より丈夫で、持ち運びができて、公平で均一な交換ができるもの……。そんな需要に答えて作り出されたのが、金属で作られた「貨幣」でした。

日本で最初に作られた貨幣は和銅元年(708年)に作られた「和同開珎(わどうかいほう・わどうかいちん)」というお金です。直径約2.4㎝の円の中央に四角い穴が開いたもので、中国大陸の統一王朝・唐の「開元通宝」というお金をお手本として作られました。

当時の唐王朝は技術・文化・学問とありとあらゆる分野で最先端を行く先進大国。遣唐使を派遣するなどして唐から様々なことを学んでいた日本は、中国の貨幣も真似ようとしたのでしょう。

こうして作られた「和同開珎」、当時は1枚で大人1日分の労働力とみなされていました。

製造方法は鋳造(ちゅうぞう・金属を溶かして型に流しいれて冷やし固める方法)が採用され、銅銭のほかに銀銭も作られていたのだそうです。

お金は誕生しましたが、まだまだ全国流通には至らず、一部の地域でのみの使用に留まっていました。人々にはまだ、布や穀物による物々交換のほうが馴染みがあったようです。朝廷はその後もたくさんの貨幣を作り、流通させようとしましたが、なかなかうまくいきません。そのうち、銅などの材料不足から貨幣の鋳造そのものが立ち行かなくなり、10世紀頃からしばらくの間、貨幣の製造は行われなくなってしまいます。

その間、お金として使われていたのが「渡来銭(宋銭)」です。平安時代、その当時中国大陸を治めていた宋という国と頻繁に貿易を行っていました。宋との貿易で、宋の貨幣が大量に入ってきていたのです。人々はこの貨幣を流用。やがて日本でも再び、貨幣の鋳造が始まります。

全国共通のお金はいつからある?江戸時代のお金事情

とはいえ、宋銭の使用や貨幣の製造再開は、朝廷や幕府主導のものではなく、貨幣を求める民間の人々の考えによるものでした。そのため、国内共通の貨幣の流通とはいかず、未だ未熟な状態が続いていました。

貨幣流通の礎を築いたのは、戦国時代の覇者・織田信長と豊臣秀吉であったと考えられています。天下統一を進める中で信長が発した各種取り決めや法令、秀吉が行った太閤検地などによって、品物を計る単位が統一。続く徳川幕府が全国で使用する貨幣制度を統一します。

同じころ、様々な技術革新により、金や銀など鉱物の算出・生産技術が向上。まだまだ十分な量とは言えませんでしたが、とにかく日本国全体で同じ貨幣が定着。徳川幕府はまず「慶長金銀貨(慶長小判など)」を作らせ、三代将軍家光のときに「寛永通宝」が誕生します。

寛永通宝は円の中央に四角い穴が開けられた小銭で、以後200年以上もの間、幕末まで製造され広く使われていきました。その間、幾度となく大きさが変わり、銅以外でも鉄や真鍮で作られたものも見つかっています。

寛永通宝以外にも、小判や丁銀(ちょうぎん・単に「銀」と呼ぶことも・細長い煎餅のような形)が作られていましたが、江戸時代の庶民にとっては小判や丁銀は相当高価なもので、ほぼ手にすることはありませんでした。寛永通宝は人々の暮らしに必要な主要貨幣として市井に根付いていったのです。

円よ!世界にはばたけ!明治~現代のお金事情

幕末から明治へと時代が移り、明治政府は西洋諸侯と対等に渡り合うべく、国政の改革に乗り出していきます。貨幣の整備も大きな課題のひとつでした。

貨幣の整備は諸外国との貿易(輸入や輸出)外交にも必要不可欠。1871年(明治4年)、明治政府はそれまでの「両」から「円」に貨幣の単位を改めます。さらに、江戸時代は藩それぞれで作成していた紙幣(藩札)も統一。ドイツの紙幣技術をお手本に、新紙幣「明治通宝」を発行します。

一番初めの「明治通宝」は、デザインや印刷技術が未熟だったこともあり、不正や偽造が多発しました。そこで政府は偽造防止のため、肖像画入りの複雑なデザインのものが作られるようになります。最初の肖像は古代日本の皇后・神功皇后でした。

こうして日本全国統一の貨幣と紙幣は着々と流通していきましたが、1877年(明治10年)に起きた西南戦争の軍備調達のため紙幣を大量に刷ったことで超インフレ状態に。この状況を打破するため、発行した紙幣の発行状況や回収管理を行って貨幣価値を安定を目的として1882年(明治15年)に日本銀行(日銀)を設立します。紙幣は「日本銀行券」として管理され、本格的な紙幣経済が始まるのです。

その後も、何度か紙幣のデザインや額面が変わり、「円」は進化し続けていきました。第二次世界大戦後は複数のインクを組み合わせた紙幣が登場。今や日本の紙幣や硬貨の製造技術は世界トップクラス。世界屈指のレベルを誇るまでになりました。

時代は昭和~平成、そして令和へ。電子マネーやクレジットカードの普及により、日本のお金も次のステップへ進もうとしています。

今使っているお金はいつ頃からある?お金の歴史と豆知識

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日本のお金の歴史をざっくりとご覧いただきましたが、「円」とはどういう意味があるのでしょう。今現在、お金はどこで作っているか、どれくらい作っているのか、気になりますよね。お金にまつわる雑学、厳選してご紹介します。

「円」とは?いつからあるお金の単位なの?

現在私たちが使用している日本のお金「円」は、明治時代に作られました。

なぜ「円」という呼び方になったかについては、いくつか理由があるようです。

まず、新しい硬貨の形から。江戸時代の「寛永通宝」はまん丸でしたが、「両」は小判でしたので縦長の楕円形でした。丁銀も縦長の形のものや、四角い形をしたものなどが流通。それが明治時代になって、すべての貨幣の形が円に統一されます。

他にも、貨幣を作るとき外国のコインを真似たことに由来するという説も。当時、中国にはメキシコの銀貨など外国のコインが大量に出回っており、その形から中国の人々がまずそれらのコインのことを「銀圓」「洋圓」などと呼んでいました。その呼び方が日本に伝わり「円(圓)」という名前になった、とも伝わっています。

さらに、貨幣を作るにあたり、イギリス製の機械を香港から買い入れたことがあるそうです。、香港のコインには「圓」という漢字が刻まれていたため、それをそのまま採用して「円」(圓)」としたとの説もあります。

残念ながら、どういういきさつで「円」に決まったのか、はっきりとした記録は残っていないのだそうです。理由はひとつではないのかもしれませんし、他にあるのかもしれません。

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