室町時代戦国時代日本の歴史

南蛮人の技術をパクれ!「鉄砲伝来」の意義とはー日本の産業革命を紐解く

1543年、日本へ鉄砲が伝来したことによって戦国時代の戦術は一変したといっても良いでしょう。鹿児島県種子島へ伝えられた2挺の火縄銃は、その後日本各地へと伝わって多くのコピー品が製造されていきました。しかし、その技術を習得するまでに非常に涙ぐましい逸話もあり、とにかく南蛮(ヨーロッパ)の技術をパクるために懸命に努力したと言っても過言ではありません。日本へ伝来した新型武器。今回は鉄砲にまつわる様々な逸話を追っていきましょう。

鉄砲の威力にびっくり仰天!【鉄砲伝来】

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日本へどのようにして鉄砲、いわゆる火縄銃が伝わったのか?そのはじまりを見ていきましょう。種子島の領主、種子島時尭が購入した2挺の火縄銃がその後の「鉄砲狂騒曲」を巻き起こしていくことになります。

鉄砲の魅力に憑りつかれた種子島時尭の興奮ぶり

種子島時尭の息子、久時が編纂させた「鉄炮記」の記述によるところが大きいのですが、キリスト教伝来よりも早い1543年(天文12年)、一隻の中国船が種子島へ漂着した時から始まります。

船に乗っていたのは中国人と南蛮人(ポルトガル人)たち。今まで見たことがない南蛮人を見て騒ぎ立つ漁民たちを押し退けてやってきたのが種子島氏家臣の西村織部でした。

「中国人なら漢字が書けるので話が通じるだろう」と考えた織部は、教養がありそうな一人の中国人と筆談を始めました。「ほうほう、商いに来た南蛮人とな。特に他意はないだろうから大丈夫だろう」と考え、当時はまだ16歳だった種子島時尭の元へ案内したのでした。

そして南蛮人たちを引見した時尭は南蛮人たちが持ってる長い筒のようなものに興味を惹かれます。「その方どもが持っておる、その長い筒のようなものはなんじゃ?」

南蛮人は「アーマ」と答えますが、やはり言葉が通じません。中国人が筆談で「外は真っすぐで中は空洞。先っぽに穴が空いていて、これは火を通す道なのです。」と説明するも、さっぱり要領を得ません。

するとポルトガル人たちは身振りで「ちょっと実演してみせようか?」と言いました。百聞は一見にしかず、ますます興味を惹かれた時尭は、さっそく実演させることに。

その時の様子を「鉄砲記」は鋭い描写で書き綴っていますね。

 

其発するや掣電光の如く、其鳴るや驚雷の轟の如く、聞く者其耳を掩わざるはなし。

一小白を置くは、射者の候中に棲鵠するの此ひなり。

此の物一たび発せば、銀山も摧くべく鉄壁も穿つべし。

<現代訳>

その発する光は電光のように鋭く、その発する音は雷鳴の如く、聞いた者は皆耳を覆わないものはいなかった。

そして一小白という的を、驚くほど正確に撃ち抜いた。

ひとたび発射すれば、銀山を砕き、鉄の壁をも貫通する威力を持っている。

 

これを見て、あっという間に気に入ってしまった時尭はさっそく2挺とも購入することを決めました。しかし南蛮人たちから足元を見られたのか、それは法外な価格だったそうです。

現在の貨幣価値でなんと2億円

まだ16歳で当主でもなかった時尭にそこまでの決定権があったのかどうかはわかりませんし、おそらく南蛮製ではなくアジアや中国製だったのかも知れません。何はともあれ、鉄砲を手に入れた時尭の興奮ぶりと有頂天ぶりは想像できますね。

頑張ってコピー品を作ろう!

さて、念願の鉄砲を手に入れた時尭でしたが、まるでオモチャを与えられた子供のように熱心に射撃技術を習得していきました。そして彼は鉄砲のコピー品の製造を思いつくのです。

当時から鉄工業の盛んだった美濃国の関。そこから移住してきた八板金兵衛を呼び寄せた時尭は、さっそく鉄砲を作るよう命じました。そして火薬調合の研究も自らの家臣に命じます。

元々、刀鍛冶だった金兵衛は器用に銃身を形作り、苦心の末完成させますが、発射してみるとどうもうまくいかない。銃身の底を鋳込んで塞ぐものの、発射の衝撃で底が吹き飛んでしまうのです。

苦慮した上、銃身の内部がどうなっているのか確かめようと、時尭に分解の許しを乞うもあえなく却下されてしまいます。それはそうでしょう。1挺1億円の銃をバラバラにするなど許されるわけがありません。

困ったあげく、金兵衛は娘を南蛮人に嫁がせることで、どうにか銃の底を塞ぐ技術を教えてもらったといいますね。当時の日本にはなかったネジの技術が、この時初めて採用されたのです。

そして鉄砲伝来から2年後、ついに初の国産鉄砲が完成の陽の目を見ることになりました。

初めて実戦投入された国産鉄砲

やがて時尭の命令で同じような鉄砲のコピー品が何十挺も製造されました。コピー品の基となったオリジナルは、種子島の本源寺経由で畿内へ届けられ、時の将軍足利義晴へ献上されたといいます。もはや技術を盗み出した以上はオリジナルは不要になった。というところでしょうか。

当時種子島は、薩摩を治める戦国大名島津氏の支配下にあったため、種子島で製造されたコピー品の多くが島津氏の元へ送られることになりました。鉄砲を使った戦術なんて皆目わからない中で、いよいよ国産鉄砲が実戦デビューを果たします。

1549年、鉄砲が日本へ伝来してからわずか6年後、島津氏の加治木城攻めで鉄砲は投入されました。記録として残っていませんが、おそらくたいした戦果は挙げられなかったものと思えますね。

なぜなら加治木城は台地の上にある平山城です。切岸は切り立ち、とても鉄砲の弾は届かなかったことでしょう。本来、鉄砲は攻撃よりも防御に適した武器ですから、鉄砲で山城攻めなどナンセンス極まりないものだったのです。

しかし結果がどうであれ、雷鳴のように轟き、何十間も先に鉛の弾を飛ばす武器の評判はあちこちに広まりました。そして噂を聞き付けた全国の大名や商人たちがこぞって、「種子島銃」と呼ばれた武器を欲しがったのです。

畿内、そして全国へ広まった鉄砲製造技術

時尭が購入したもう1挺の鉄砲はどうなったのでしょう?実はこの時期、紀州(現在の和歌山県)根来寺杉ノ坊算長(すぎのぼうかずなが)という人がいて、わざわざ種子島へやって来て鉄砲を買い付けたのです。算長は強大な武力を持った根来寺僧兵の部隊長だったため、この新式兵器の威力に目を付けたのでしょうね。

紀州へ戻った算長はさっそく、鍛冶職人の芝辻理右衛門にコピー品を作らせます。当時の根来寺の財力は70万石ほどもあったそうですから、カネの力にモノを言わせてどしどし大量生産に踏み切りました。

やがて根来の隣にある雑賀庄にも鉄砲製造技術が伝わり、世に知られる雑賀衆たちもまた強大な鉄砲集団を組織したのでした。彼らは大規模な海運業を営んでいましたから、地元で鉄砲を作らずにの職人たちに製造を任せていたようです。

こうして紀州一帯が鉄砲王国になる一方、もう一つの鉄砲産地となる場所が動き始めました。種子島から鉄砲の献上を受けた足利義晴もまた、鍛冶職人たちにコピー品を作らせたのです。その場所こそ幕末に至るまで鉄砲を作り続けた「国友村」だったのでした。

日本人には元々、刀槍類を大量に作れるだけの優秀な鍛造技術があり、習熟した彼らにとって鉄砲の大量生産はたいして難しいことではありませんでした。

最盛期には日本で5万挺以上もの鉄砲が流通し、大量生産のおかげで鉄砲の製造価格も軒並み安くなりました。かつて1挺1億円だった鉄砲も、江戸時代に入る頃には30万円ほどで買えるようになったそうです。

これはまさに日本の産業革命ともいうべきもので、銃器の保有量でいえば世界で最も進んだ軍事先進国だということになりますね。

鉄砲はどうやって撃っていた?

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ところで鉄砲(火縄銃)はどのようにして射撃していたのでしょうか?現代のライフル銃のように単に弾を込めて引き金を引くだけという風にはいかなかったようです。それはそれは面倒なものでした。詳しく解説していきましょう。

まずは火薬と弾丸を詰めよう

当時の鉄砲を扱う兵たちは、鉄砲を撃つために様々な道具を準備せねばなりませんでした。それだけ鉄砲は扱うのに面倒な武器だったのですね。

まず銃口の先端から黒色火薬を適量ぶん流し込みます。サラサラ~という感じですね。しかし風が強い日にはなかなかうまくいかなかったようです。

次に銃弾となる丸い鉛玉を転がし入れ、槊杖(かるか)と呼ばれる細長い棒状の道具で、中の火薬と鉛玉を押し固めますね。

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明石則実