朱印船の乗員が揉め事を起こしてしまう
慶長13(1608)年、晴信がマカオに派遣した貿易船である朱印船の乗員たちが、貿易を巡って揉め事となってしまいました。これを、マカオの総司令官であるポルトガル人のアンドレ・ペソアが鎮圧したのですが、その際、晴信方の乗員に多くの死者が出てしまったのです。
晴信は怒り、何とか仇討ちができないかと考えていました。そんなところへ、翌年、ペソアが事件の顛末を時の権力者・徳川家康に釈明したいと長崎にやって来たのです。朱印船が持つ朱印状は、幕府が発行した許可証でしたから、家康のところに来るのは道理が通っていました。
ポルトガル船を攻撃!「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」
ところが、長崎奉行・長谷川藤広(はせがわふじひろ)は、もともとペソアとの関係が良くありませんでした。ポルトガル船が長崎に貿易にやって来ても、幕府の許可なく勝手に取引のやり方を変えてしまったり、勝手に品物を自分で買ったりするなどしていたのです。
そんな藤広は、晴信が復讐心に燃えていることを知ると、なんと晴信をそそのかし、ペソアと船の捕縛を幕府に訴え出るように仕向けました。
晴信の訴えにより、ペソアは幕府に召喚されますが、身の危険を感じた彼は出頭せず、長崎港を脱出しようと準備を始めます。それを聞いた晴信は長崎に急行し、船を攻撃。すると、ペソアは船もろとも自爆してしまったのです。
これが、ペソアの乗っていた船の名前から、ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件と呼ばれています。マードレ・デ・デウス号事件とも言いますね。このことがあってから、日本とポルトガルの関係はほぼ断絶し、江戸幕府はイギリスとの貿易を重視するようになっていきます。
旧領回復をもくろみ…賄賂を贈る
ところで、仇討ちを果たしたものの、晴信はまだモヤモヤとしていました。というのも、ペソアのポルトガル船を撃破したことに対し、恩賞が得られると思っていたのですが、それが果たされていなかったのです。かつて領有していた土地を再びもらえるのではないかと期待していたのでした。
そんな晴信に、今度は別の人物が近づいてきます。岡本大八(おかもとだいはち)という人物で、「今ならきっと旧領を取り戻せますよ」と甘い言葉をささやき、仲介を申し出てきたのです。それを信じた晴信は、大八に賄賂を贈りました。
だまされた晴信
ところが、大八からも幕府からも、一向に何の音沙汰もありません。しびれを切らした晴信は、大八の主である幕府の重鎮・本多正純(ほんだまさずみ)を問いただしました。
このため、ゴタゴタは幕府の知ることとなり、大八は呼び出されて尋問を受け、書類を偽造し、晴信をだましたことを認めます。すぐに大八は投獄されることになりましたが、彼は獄中から「晴信が長崎奉行の長谷川藤広を暗殺しようとしていた」と告発したのです。
ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件の際、藤広が晴信の攻め方を「手ぬるい」と批判したため、後に晴信が「今度はあいつ(藤広)を沈めてやるぞ!」と口走ったことがありました。これを藤広への害意があると大八は訴えたのです。
はめられたばかりに…行き詰まり、切腹に処せられる
その発言は看過できぬとばかりに、幕府は晴信を尋問します。ここで晴信は何も弁明できず、藤広への害意があったと認定されてしまいました。
大八は朱印状を偽造した罪によって火あぶりに処せられましたが、晴信もまた処分を免れることはできず、遠く離れた甲斐(かい/山梨県)への流罪となってしまいます。そしてほどなくして、彼には切腹の沙汰が下されたのでした。
ここで晴信の生涯は幕を閉じることになりますが、その死については二通りの話が伝わっています。幕府の申しつけ通り切腹して果てたというものありますが、その一方で、キリシタンだったために自害ができず、家臣に首を斬り落とさせたというものもあるそうです。
ペテン師にはめられたのが運の尽き
キリシタン大名として勢力を確立した有馬晴信ですが、だまされた上に切腹させられるという、思いもかけない最期を遂げました。もしかすると、人を信じやすかったのかもしれません。信じるというのは戦国武将にとっては大事な「義」の心でもありますが、江戸時代に入れば、もはやそれは通用しなくなっていたのかもしれませんね…。