室町時代戦国時代日本の歴史

東北一の大大名「伊達政宗」最後の戦国大名をわかりやすく解説

独眼竜の異名で知られる戦国大名、伊達政宗。若くして東北の名門、伊達家に生まれた政宗は20代の若さで東北一の大大名にのし上がった若き英雄です。幼いころに天然痘で右目を失うも、若さと覇気でそれを乗り越える力強さは後世の多くの人を魅了しました。その一方、豊臣政権・江戸幕府と目まぐるしく変化する時世に対応し、仙台藩60万石の基礎を築き上げ、国内統治に長けた名君でもありました。勇猛果敢な戦国武将と国を豊かにする統治者。この二面を併せ持つ伊達政宗について紹介します。

政宗の誕生から家督相続まで

image by PIXTA / 35610290

伊達政宗が生まれた1567年は織田信長か稲葉山城、のちの岐阜城を攻め落として美濃を平定した年。各地の勢力が有力大名のもとにまとまりつつあった時代でした。政宗は奥州でも随一の名門である伊達家の長男として生を受けますが、順風満帆とはいきませんでした。まずは、政宗の生誕から家督相続までをまとめます。

奥羽のサラブレッド 伊達政宗

image by PIXTA / 41667660

1567年、伊達政宗は伊達家16代当主伊達輝宗の嫡男として生まれます。父、輝宗はようやく家中をまとめ上げ、南奥羽の地で勢力を拡大させようとしていました。

母はこちらも名門の最上家から嫁いだ義姫。のちに、最上の鬼姫といわれるほどの豪胆な女性です。まさに、奥羽のサラブレッドとでもいうべき血統に生まれました。

政宗の幼名は梵天丸。梵天丸の名は、母の義姫が見た夢に由来します。義姫の夢に老僧が現れ、腹に宿を借りたいと申し出る夢を見たのです。起きた後に夫の輝宗に相談したところ、良い夢だから許せといわれました。

再び、夢に現れた老僧に宿を借りることを許すと告げると、老僧は宿った証拠として幣束を与えたといいます。幣束のことを梵天ともいうので、生まれた子は梵天丸と名付けられました。

天然痘で片眼を失明 虎哉宗乙(こさいそういつ)との出会い

梵天丸は1571年、5歳の時に疱瘡(ほうそう)、現在でいう天然痘にかかります。天然痘はウイルスを病原体とする恐ろしい感染症です。別名は痘瘡(とうそう)。非常に強い感染力を持ち、致死率も高い病気です。

この病気にかかると高熱を発し、悪寒・頭痛などを伴い、熱が下がった後は顔面に発疹がでます。発疹はその後も残り顔面に痘痕(あばた)といわれる跡を残すので、天然痘にかかったかどうかは見分けがつきやすかったでしょう。

梵天丸も感染後、高熱を発したと考えられます。ウイルスが目に及べば失明することも珍しくありませんでした。こうして、梵天丸は5歳にして片眼を失明しました。

一命をとりとめた梵天丸は輝宗が招いた高僧虎哉宗乙を師として学びはじめます。虎哉禅師は「心頭滅却すれば火もまた涼し」で有名な甲斐の恵林寺住職、快川紹喜の弟子であり当時一流の僧侶でした。病気に関わらず、輝宗が梵天丸の将来に期待していたことを感じられますね。

結婚、初陣、家督相続

1577年、梵天丸は元服。伊達藤次郎政宗を名乗りました。藤次郎は伊達家の当主に受け継がれる名前の一つ。政宗は伊達家中興の祖とされた9代当主伊達政宗にあやかって名づけられました。

伊達家では、代々室町将軍から名前の一字をもらっていましたが、当時の将軍足利義明は信長によって追放されていた身。もはや、彼の名前をもらう必要を感じなかったのかもしれませんね。

その2年後の1579年、政宗が13歳の時に隣国の戦国大名で三春城主の田村清顕の娘である愛(めご)姫を正室に迎えます。1581年、政宗15歳の時に伊達氏と隣国の相馬氏との間で戦いが起きました。政宗が初陣を飾ったのはこの相馬氏との戦いです。

こうして、着実に成長を遂げていた政宗は1584年10月、父の輝宗隠居にともなって家督を相続し伊達家17代当主となりました。しかし、まだ、18歳の若者です。家督を継いだといってもすべてを単独で決定したわけではなく、父と協力しての領国経営だったでしょう。その協力関係はある日突然、途絶えることになります。

戦国大名 伊達政宗

image by PIXTA / 46586518

家督を相続した翌年、父、輝宗を失った伊達政宗は近隣諸国との戦いに明け暮れます。特に、南奥羽の蘆名氏や常陸の佐竹氏、出羽の最上氏との争いはたびたび政宗を窮地に陥れますが戦いや外交によってそれらの危機を乗り越えました。南奥羽の覇者となった政宗の前に立ちはだかったのは天下人、豊臣秀吉徳川家康でした。戦国大名伊達政宗の成長をみてみましょう。

父、輝宗の死

家督相続の翌年である1585年、田村氏の配下にあった小浜城主の大内定綱は二本松城主の畠山義継と手を組んで田村氏から独立。この件がもとで政宗は大内定綱支配下の小手森城を攻め、見せしめとして城兵を皆殺しにしました。

恐れをなした畠山義継は輝宗に泣きつきます。これにより義継は命を助けられ、わずかではあるが所領を安堵されました。義継は輝宗のもとにお礼を言うため訪問します。帰り際に輝宗が義継を見送ったその時、なんと、義継は輝宗を拉致。人質として二本松城へ連れ去ろうとしたのです。

知らせを聞いた政宗が急いで駆け付け追いつきます。追い詰められた義継は輝宗を盾にして逃亡を図りました。このまま輝宗の拉致を許せば、畠山やその背後にいる蘆名氏に弱みを握られることになります。政宗はやむなく、畠山義継もろとも父を殺さざるを得ませんでした。

人取橋の戦い~政宗、老将鬼庭左月の活躍でピンチを脱する~

輝宗の法要を済ませた政宗は弔い合戦として二本松城に兵を進めます。畠山勢は国王丸を立てて必死の抵抗をしました。この事態に蘆名氏・佐竹氏・二階堂氏・岩城氏・石川氏・白河氏・相馬氏などが連合軍を結成、二本松城救援の兵を差し向けました。その数およそ30000。一方、政宗が率いる兵はわずかに7000伊達勢は圧倒的に不利でした。

両軍は瀬戸川にかかる人取橋の周辺で激突します。数に劣る伊達勢は次第に連合軍に押し込まれました。ついに、佐竹軍が政宗の本陣まで切り込んできます。ここで宿将の鬼庭左月が殿を務めて奮戦、身代わりとなって戦死しました。左月の奮戦の甲斐あって政宗は後方の本宮城に逃げることに成功。戦いに敗れたものの九死に一生を得ました。

このまま連合軍が北上を続ければ伊達家滅亡かと思われたのですが、なぜか、連合軍は前進を停止。一説には、佐竹氏の本国である常陸が北条氏や里見氏の攻撃を受けるという情報が流れたためともいわれますが、真相は定かではありません。この戦いの後、二本松城は開城しました。

次のページを読む
1 2 3
Share: