神聖ローマ帝国の始まり
神聖ローマ帝国が誕生したのは962年。この年フランク王国という巨大な王国が分裂してできた東フランク王国の国王であるオットー1世が異民族であったマジャール人を撃退したことによって当時キリスト教の頂点に立っていたローマ教皇からローマ帝国の皇帝の座を与えられました。これがいわゆる神聖ローマ帝国の誕生なんですが、実はこの時オットー1世は神聖ローマ帝国という国を建国していません。オットー1世は確かに皇帝の座にはついたのですが、まだこの頃は『帝国』や『ローマ帝国』と名乗っており、まだまだ神聖ローマ帝国とは名乗ってはいませんでした。
ちなみに、この帝国が神聖ローマ帝国となるのは12世紀ごろ。しばらくお待ちください。
こちらの記事もおすすめ
イタリアが欲しい!神聖ローマ帝国のイタリア政策
神聖ローマ帝国の最大の目標。それは何と言ってもイタリア半島を征服することでした。だって名前にはローマって入っていますからローマを領地にしなければなんだか箔がつきません。
でもこの頃ローマ周辺はローマ教皇の領地となっており、まずイタリア半島へと勢力を伸ばすとどうしても教皇との対立は避けられません。また、神聖ローマ帝国はドイツにあります。でも神聖ローマ帝国皇帝がイタリアばっかし関心すると本国のドイツでは皇帝の命令がないため各地を治めていた領主たちがやりたい放題し始めてしまいまいました。これが後に神聖ローマ帝国が帝国ではなくなる最大の理由となるのですが、それはまた後ほど。
神聖ローマ帝国最大の弱点
神聖ローマ帝国がどうして国として成り立たなくなってしまったのか?
その最大の理由は神聖ローマ帝国という国は皇帝の権力が弱く、さらにその皇帝が諸侯の中から選挙で選ばれるということがありました。
王国といえばみんなが思うのが子孫代々が王位を継承する世襲制が今では当たり前となっていますが、神聖ローマ帝国は違います。神聖ローマ帝国の場合だったら諸侯の中でも特に有力だった貴族たちが皇帝の座を巡って争ったり、たまには皇帝が存在しなかったりともはやめちゃくちゃ。
こんな国が成り立つはずもなく、神聖ローマ帝国はドイツ領主をまとめているという存在しかならなくなってしまいました。
教皇との争い
さてさて、なんだかんだで成立した神聖ローマ帝国でしたが、11世紀に入ると1054年に神聖ローマ帝国皇帝に即位したハインリヒ4世は勢力の拡大を計画。当時ローマ教皇が持っていた聖職者を任命する叙任権を求めて激しく教皇と争うこととなります。
さらに、この当時のローマ教皇であったグレゴリウス7世はかなりの現実主義。この頃教会も神聖ローマ帝国と癒着しまくっていたと考えていた教皇は1075年に神聖ローマ皇帝による叙任権を禁止。神聖ローマ帝国と教会の関係を断とうとします。
もちろん、ハインリヒ4世はこれを黙っては見ていませんでした。すぐさま自身に協力してくれる諸侯を集めてグレゴリウス7世と対決を決意しますが、この頃の教皇という存在は計り知れないほど大きく、一度教皇が破門を宣告すれば例え神聖ローマ皇帝だとしても支持者を失いそのまま転落の道を歩むことは確実なものとなってしまいます。教皇はこの破門宣告という今でいえばチートみたいな強力な技を使いハインリヒ4世を屈服。
いわゆるカノッサの屈辱を行わせ、皇帝よりも教皇が強いという構図を確定させたのでした。
こちらの記事もおすすめ
中世ヨーロッパの大事件、カノッサの屈辱 – Rinto~凛と~
まさかの大空位時代
叙任権闘争は一応教皇の勝利にて終わりましたが、その後神聖ローマ帝国と教会の間では叙任権をめぐる闘争は引き継がれていき、特に赤髭王(バルバロッサ)と呼ばれたフリードリヒ1世の時代にはイタリア半島を手に入れ神聖ローマ帝国の権力を着実に回復させていったのですが、なんとフリードリヒ1世の息子であるフリードリヒ2世の死によって神聖ローマ帝国の皇帝の座を引き継ぐにふさわしい人物がいなくなり、1254年から19年間皇帝がいない大空位時代へと突入していきます。
大空位時代の時には各地の諸侯が自ら神聖ローマ皇帝を名乗り始め国はもうめちゃくちゃ。さらにはお隣フランスやイギリスなどの介入もあってかその権力を失っていきます。
しかし、1273年にようやっとスイスの地方貴族であったハプスブルク家のルドルフ1世を選出。このルドルフ1世の即位によってハプスブルク家の栄華への道が開かれたのでした。
金印勅書の制定と神聖ローマ帝国の確定
こうしてなんとかハプスブルク家のルドルフ1世を皇帝にすることによって終結した大空位時代でしたが、まだまだこの頃のハプスブルク家の勢力は弱いものでまだまだ混乱状態が続いていました。
そこで1356年に当時の皇帝カール4世は神聖ローマ帝国の基本的な法律である金印勅書を作成。この法律によって皇帝になれる家が決められて勝手に諸侯が皇帝を名乗るという事態をなくすことに成功します。
また、この金印勅書によってこれまでバラバラであった神聖ローマ帝国が不完全ながらも法によって支配されるようになり、これまでの諸侯の分裂から神聖ローマ帝国という枠組みを作ることができたのでした。
ハプスブルク家による全盛期
こうして神聖ローマ帝国の法律が完成しましたが、1438年にルクセンブルク家が断絶したことによってハプスブルク家出身のアルプレヒト2世が皇帝の座につくとここから先はハプスブルク家が皇帝の座を独占化していくようになります。
ちなみに、この時から神聖ローマ帝国はイタリアを放棄。ローマで皇帝の就任式を行わず、神聖ローマ帝国の正式名称を『ドイツ国民による神聖ローマ帝国』とドイツを中心とした国家へと様変わりしていくようになりました。
さらにハプスブルク家は海外領土を婚姻関係を利用して次々と拡大。16世紀に入ってカール5世の時代となるとその領土は本拠地のオーストリアを始め、スペイン、ベネルクス地方などヨーロッパの地域を始め、当時大航海時代で発見されたばかりのアメリカ大陸もその手中に収めていました。
こちらの記事もおすすめ
ヨーロッパの超名門ハプスブルク家とはどんな家だったのか? – Rinto~凛と~