不遇の幼少期
彼が生まれたのは1808年のこと。このころは伯父の絶頂期の頃でヨーロッパのほとんどを制覇したも同然の頃でした。そんななかナポレオン3世は第4皇位継承者として将来の生活に全く困ることがない状況にありました。
しかし、ナポレオン1世はモスクワ遠征にて大失敗を犯してしまうとあっさり失脚。
このとき王政復古が起こってしまい、その際王位に就いたルイ18世はナポレオン一族をパリから追放。ナポレオン3世は実質的な亡命生活に突入することになりました。
しかし、親戚にバイエルン王国(今のドイツバイエルン州を統治していた王国)の人がいたたため、ナポレオン3世はバイエルン王国の街であったアウクスブルクに定住することになります。
七月革命の挫折
こうして国外にて精力的に活動を行なっていたナポレオン3世でしたが、1830年についに好機が到来することに。
なんと故郷のフランスにて七月革命が勃発。ルイ18世は失脚に追い込まれ、ボナパルト家の復活を願う人もかすかに存在していました。
しかし、結局フランス王になったのはオルレアン家のフィリップ8世。さらにはボナパルト家の人はフランスに入れないという法律まで成立させてしまいます。こうして復活どころかフランスにすら入れなくなってしまったナポレオン3世。そのあとは兄と一緒にイタリア統一運動を支援したり、文筆活動を行なっていたんだそうです。
2度のクーデター
フランスを追われてからかなり時はたちしばらくして26歳の頃。ナポレオン3世はナポレオンがとっても好きであった人と意気投合。ナポレオン3世はこのことを受けてオルレアン家のルイ・フィリップ王に対してクーデターを起こして再びナポレオンの威光を打ち立てようと早速計画を始めていくことになりました。
しかし、ナポレオン3世がクーデターを起こそうとした時にはナポレオンの事を熱狂的に支援する人なんてごくわずか。これに賛同する人もほとんどおらず、このクーデターはたった2時間程度で鎮圧され、ナポレオン3世自身も捕まってしまいます。
これを見たルイ・フィリップは「こいつは単なる時代遅れのアホだからまぁええか」と心を落ち着かせて本来なら国家転覆で死刑でもおかしくないところをなんとアメリカへの追放だけで済ませました。
今でこそ一大超大国であるアメリカですが、ナポレオン3世が生きていた頃はまだ「新世界」と呼ばれていた頃。さらにクーデターによって愛していた彼女と破局してしまい、アメリカでの生活はかなり荒んでいたそうでお金を湯水のごとく使っていたんだとか。
そんなナポレオンでしたが、この頃にナポレオン1世の亡骸がセント・ヘレナ島から引き揚げたことによってフランスの威光を高めた英雄としてナポレオンは一大ブームに。
これによって一時期は犯罪者レベルの扱いを受けていたボナパルト家の境遇はガラリと変わり、一気にナポレオンの子孫としてのイメージがつくようになります。
これをしめしめと思っていたのがナポレオン3世。伯父のブームを好機と見て、再びクーデターを起こそうと決心を決めます。
ナポレオン3世はフランスのとある街で演説によって心を掴み、さらにはナポレオンの威光を借りて一気にフランスを支配しようと考えたのですが、残念なことにあくまでもブームとなっているのは『ナポレオン1世』。
ナポレオンの甥のことを知っている人はごくわずかであっさりとこのクーデターはおじゃんとなってしまいました。
結構間抜けなクーデターとなってしまいましたが、クーデターはクーデター。ルイ・フィリップは今度こそナポレオン3世を葬ろうとしますが、裁判官の中ではナポレオン1世のお世話になった人が多く、ナポレオン3世は結局死刑を免れて終身刑となりました。
獄中の生活と大脱走
それから5年半ほど、ナポレオン3世はアム要塞という場所で服役することになりましたが、本を取り寄せることや、手紙を出すことは許可されていましたのでどちらかというと服役というよりは自由に外を歩けない軟禁に近い状態だったようです。
著書の中で、彼は労働者の保護や政治のあり方などについて、自分の考えを述べています。この本は数度増刷され今までナポレオン3世の話に耳を傾けなかった人々に、「なんだいい奴じゃん」というイメージを植え付けたのです。
二月革命とフランス復帰
こうして脱走を果たしたナポレオン3世でしたが、この脱走劇のおかげで知名度は急上昇。さらにフィリップ王の人気が下落したこともあり、1848年に二月革命が勃発。
最終的には七月王政は崩壊し、ナポレオン3世は無事にフランスに舞い戻ることができたのでした。
さて、こうしてナポレオン3世はフランスに帰ることができたのですが、ナポレオン3世はこの当時のフランスの状況に注目します。
この頃のフランス政府は主に大金持ちと政治家で構成されており、フランス革命を起こしたのにもかかわらずほとんど変わっていない状況を見て一般民衆との軋轢が生まれていきました。
その結果フランスの国内情勢はかなり不安定。政府はコロコロ変わって一時期は軍事独裁政権化するなど大混乱に陥ってしまいました。
この混乱を好機と見たナポレオン3世はナポレオン1世の力を借りてフランス大統領になるために選挙に出馬。見事に当選し、ついにフランス政界に復帰することができたのでした。
フランス大統領、そして皇帝へ
かくしてフランスの議員となったナポレオン3世。次はついにフランス大統領になろうと考え、選挙の結果ナポレオンの後継者というブランドもあってか74%という得票率で圧勝。
ついにフランス大統領に就任したのでしたがこの頃のフランスの大統領の任期は4年な上に連続再選は禁止。レームダックもありますので実質3年で自身の基盤を残さなければならない状態となっていたのです。
野党の議員との争いもあり、ジリジリとタイムリミットが迫ってきている中、ついにナポレオン3世は大博打に打って出ます。
彼は国内各地を巡って民衆の人気を取り付け、軍人を接待して取り込みさらには野党議員も逮捕。さらにナポレオン1世の名をヨーロッパ中に轟かせたアウステルリッツ三帝会戦が行われさらにナポレオン1世が戴冠式を行った12月2日にクーデターを開始。
そして1852年11月、ナポレオン3世による帝政に関する審議の国民投票で大半の支持を得て、ついに37年ぶりにポナパルト家の人物がフランス皇帝となりました。
ナポレオン3世による独裁
こうして皇帝となったナポレオン3世は早速自らの権力を維持するために1852年憲法を制定。
この憲法では皇帝は軍隊の指揮、条約の締結・交渉、法案の発議を行うとされ、さらには国会が決めた法律の拒否権を握り、大臣を勝手に罷免できる権限も持つことになりました。
こうなると共和制というよりもはや単なる独裁。国会はナポレオン3世の法案を可決して登録するだけの骨抜きの状態とされ、全てのことはナポレオン3世が決める状態となっていたのです。
ナポレオン3世は国際的な非難を浴びないように一応は民主主義を尊重する「民主的独裁」をてーまとしてあげていましたが、結局は民衆をの意見を取り入れたのは皇帝就任の時の国内投票ぐらいなもので民主主義とは全く言えないものでした。