- 1.ニュートンの幼少期は?
- 1-1.数学の天才ニュートンの誕生
- 1-2.ニュートン家はお金持ち
- 1-3.結構複雑な幼少時代
- 2. 天才ニュートンの学生時代は?
- 2-1.天才ニュートンの学生時代
- 2-2.気弱でいじめられっ子だった
- 2-3.ケンブリッジ大学への進学
- 2-4.ニュートンの大学生活
- 3.ニュートンの大発見とは?
- 3-1.ペストの流行は転換期に
- 3-2.「万有引力」は誰もが発見できた
- 3-3.万有引力は本当にニュートンが作った?
- 3-4.ハレーとの出会い
- 3-5.ニュートンとフックはライバル?
- 3-6.万有引力発見の経緯を簡単に
- 3-7.ひとつの論文から万有引力は日の目を見た
- 4.再び花開いたニュートンの晩年とは?
- 4-1.贋金対策に取り組む
- 4-2.多彩な才能を開花させる晩年
- 4-3「近代科学の父」と「最後の魔術師」どっちがニュートン?
- 史上最高の天才科学者ニュートンも人間の気持ちはわからなかった
この記事の目次
1.ニュートンの幼少期は?
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20代の前半に「万有引力」や「微積分」を発見したニュートン。実は、この大発見は小論文に纏められた後、20年も隠されていました。でも、彼の人生は波乱万丈で、最初の25年までに発見による大偉業を成し、後の30年は惨憺たるもので精神を病み、うつ病を発症したほどだったとか。そんな、ニュートンの幼少期ってどんなものだったのでしょう。
1-1.数学の天才ニュートンの誕生
ニュートンは、イングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内戦「清教徒革命(せいきょうとかくめい)」が勃発した年に誕生しています。また、彼の発見にゆかりのある、ガリレオ・ガリレイが亡くなった年でもあるんですよ。ニュートンは、英国リンカンシャー州の田舎町ウールスソープで生まれました。
彼の誕生日は、1642年12月25日(ユリウス暦)です。新暦のグレゴリオ暦では、1643年1月4日となります。ニュートンの誕生を喜んだ祖母は、「クリスマスの日に生まれたのだから、この子の人生はきっと神様が守ってくださる」と嬉しそうに話しかけたようです。
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ちょっと雑学
イギリスではニュートンが亡くなり25年たった1752年9月3日を、9月14日とし、グレゴリオ暦が採用されました。この改暦は、ニュートンなど誕生日によって年をまたぐ人もいるので結構重要です。因みに日本では、1872(明治5)年12月3日に当たる日に、グレゴリオ暦が採用され1873(明治6)年1月1日とされています。
1-2.ニュートン家はお金持ち
ニュートン家は、100年もの前から土地を開拓しながら所有地を増やしてきた、裕福な農家でした。土地持ちの自作農家の中でも、高い身分の「ヨーマン」です。父は、他の農民同様、読み書きができなかったとか。ニュートンが誕生する2ヶ月前に病死しています。母のハンナは、1月1日に洗礼を受けさせ、父と同じ「アイザック・ニュートン」と名づけました。
母は、父よりワンランク上のジェントリで、貴族階級でした。父と母の年齢差は18歳もあったとか。ニュートンは、予定日より早く生まれたため未熟児で、1リットルサイズのクォートマグカップに入るほど小さかったとの説もあります。でも、ニュートンは歯を1本失っただけで、84歳まで生きました。
未亡人だった母はニュートンが3歳の時に祖母に預け、41歳年上で64歳の司祭スミスと再婚しました。ニュートンの近所には親戚も多かったのですが、孤独を好んだ彼はいつも一人だったとか。
1-3.結構複雑な幼少時代
農園は、彼にとって宝箱のようでした。家畜たちと戯れたり、果樹園の水路で探検ごっこをしたり、高い丘に登っては地平線を眺め潮風を感じながら過ごしました。
再婚相手はニュートンを自分の子としては認めず一緒に暮らすことはなかったのです。しかも、母と会うことも許さなかったとか。かなりの変わり者ですよね。だからニュートンは、両親のいない寂しさに耐えながら幼少期を送っています。
ニュートンはスミス氏を憎んでおりこの経験は、後の人格形成に大きく影響したようです。スミス氏が亡くなったとき、彼の実の子とは違いニュートンには遺産すらありませんでした。母が相続した200冊もの本の中から、『自然と人工の不思議』という技術書をもらい、グランサムの学校に進んだときに何度も読んだそうです。この本が、「近代科学の父」と称される、ニュートンのはじまりだったのかもしれません。
ちょっと雑学
母ハナが結婚した理由は、時代背景にもあります。この頃は夫を失ってもすぐに再婚していました。女性は家庭で子育てをするのが当たり前で、一人で子供を育てるのは皆無だったのです。でも、ハナには農場経営という仕事があり、切り詰めれば生活できたと思われます。しかし、経済的に安定するため、結婚した方がいいと思ったのでしょう。
実はニュートンにはマザコン説があり母の頼みには従順で、母が頼めば学校を辞めて家業を手伝い、母の晩年には献身的に介護をしたとか。でも、実際に育ててくれた祖母に対しては至極冷淡だったといわれています。
2. 天才ニュートンの学生時代は?
10歳の時に母の再婚相手が亡くなり、3人の異父兄弟と共に帰ってきました。でも、以前のように母を独り占めすることはできませんでした。母は、継父の遺産でグランハムの学校に入学させてくれたのです。ここから、天才ニュートンへの人生が始まります。