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ソ連の再生を試みたソ連の指導者「ゴルバチョフ」を元予備校講師がわかりやすく解説

1980年代、政治・経済・軍事のいずれにおいても行き詰まりを見せていたソビエト連邦を改革しようとした政治家がいました。彼の名はミハイル・ゴルバチョフ。ゴルバチョフはペレストロイカを推進し、ソ連を復活させようとします。しかし、ゴルバチョフの改革は失敗に終わり、ソビエト連邦は解体に追い込まれました。今回はゴルバチョフについて元予備校講師がわかりやすく解説します。

1960~80年代のソ連

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1964年、キューバ危機の処理に失敗したフルシチョフが失脚。ブレジネフが政権の座に就きました。ブレジネフは18年間にわたってソ連の最高指導者として君臨します。ブレジネフ時代にソ連の体制と経済は硬直化しました。進歩よりも安定、保守が勝るようになり官僚支配が進行。人事も停滞し経済からは活力が失われます。

ブレジネフ時代の政治的停滞

フルシチョフによって登用され、ソ連共産党の幹部として抜擢されたブレジネフはフルシチョフ解任後に共産党第一書記(のち書記長)としてソ連の最高指導者となりました。

ブレジネフは国内政治を首相のコスイギンに任せ、自らは党と軍を抑え外交などを担当します。ブレジネフは欧米諸国と協調する姿勢を見せて緊張を緩和させました。しかし、東欧諸国に対してはブレジネフ・ドクトリンにもとづき、締め付けを厳しくします。ブレジネフはプラハの春などの民主化運動は徹底的に弾圧しました。

ブレジネフの時代、ソ連国内は大きな変化がなく比較的安定した時代となります。その一方、ソ連共産党の高級幹部(ノーメンクラツーラ)の一部は経済的に恵まれ、特権階級化していました。ブレジネフはソ連国内でも自由主義的な言動を取り締まります。人事面では年功序列が優先され「老人支配」とも呼ばれました。

社会主義経済の行き詰まり

ブレジネフにより国内政策を任されたコスイギンは停滞したソ連経済の改革を目指します。行き詰まりが明白となった計画経済を一部改め、資本主義的要素を取り入れた利潤導入方式経営を試みました。しかし、保守派がコスイギンの改革に反対したため経済改革は挫折します。

ソ連の生産物は質より、計画通りに量を確保することが優先されたため、品質が向上せず欧米に比べて品質面で大きく劣りました。また、生産量の面でも目標を達成できなくなると食料品や消費財を外国から輸入せざるを得なくなります。その結果、ソ連の対外債務は大きく膨らみました

さらにソ連経済を悪化させたのが社会主義陣営のリーダーという立場です。自国の経済が苦しくなっているにもかかわらずリーダーとしての威厳を維持するため、ソ連は東欧諸国に安価な天然資源の供給を、発展途上国には経済支援をつづけました。

アフガニスタン侵攻

停滞し硬直化したソ連の状態を一気に悪化させたのがアフガニスタン侵攻です。ブレジネフ政権の末期にあたる1979年、ソ連はアフガニスタンの親ソ連政権を維持するためアフガニスタンにソ連軍を派遣しました。

アフガニスタンに進駐したソ連軍はイスラム原理主義系のゲリラと激しい戦いを展開します。ソ連のアフガニスタン侵攻は国際社会から激しい非難を浴びました。ソ連に抵抗するアフガニスタンゲリラの中から、のちにアフガニスタンで勢力を拡大する「タリバン」がうまれます。

アフガニスタンは山がちな地形で、ゲリラにとって有利な地形でした。そのため、戦いはソ連の目論見よりもはるかに長期化します。結局、ソ連のアフガニスタン駐留は10年にも及びました。

その間、ソ連は消耗し続けます。アメリカにとってのベトナム戦争がそうであったように、ソ連にとってアフガニスタン侵攻は国の力を大きく損なう戦いとなりました。

ゴルバチョフ政権の諸改革

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ブレジネフ時代の長期にわたる停滞によってソ連の社会・経済から活力が失われていました。1985年に書記長に就任したゴルバチョフはソ連を再生させるためペレストロイカを実行します。その一方、ソ連経済の重石となっていた軍事費を削減するためゴルバチョフはアメリカのブッシュ大統領と会談。冷戦の終結を宣言しました。

ゴルバチョフの書記長就任

1931年、ゴルバチョフは北カフカス地方の農民の子として生まれました。学校時代の成績は優秀で、地元の市当局の推薦によりモスクワ大学法学部に入学します。1952年、ソ連共産党に入党。その後、地元に戻って地方幹部として出世しました。

1978年、党中央の農業担当書記になります。1980年、ソ連の最高指導部である政治局員に抜擢されました。ゴルバチョフは政治局員の歴代最年少記録を更新します。いわば、期待の新人だったわけですね。

ブレジネフの死後、アンドロポフ、チェルネンコと短期の政権が続きました。1985年、チェルネンコの死去を受けてゴルバチョフはソ連共産党書記長となります。このとき、54歳。老人支配と言われたブレジネフ時代とはうってかわった若き指導者の登場はソ連国内で大きく報道されます。

ペレストロイカのはじまり

すでに党幹部としてソ連の問題点を把握していたゴルバチョフはすぐさま改革に向けて動き出しました。1985年11月にアメリカのレーガン大統領と会談し核軍縮の推進や相互訪問の促進についての声明を発表します。

1986年、ゴルバチョフはペレストロイカの実施を発表しました。ペレストロイカとはロシア語で建て直しや再建を意味する言葉。文字通り、ゴルバチョフは硬直化したソ連の政治・社会・経済の建て直しを目指したのです。

ゴルバチョフは経済を活性化させるため、市場経済の導入をはかりました。スターリン時代から行われていた計画経済は実態に合わず、かつて否定した資本主義の経済原理である市場経済を導入せざるを得ないというのがゴルバチョフの判断です。

当初、ゴルバチョフは経済の改革を主眼とし、政治改革まで踏み込んでいませんでした。しかし、チェルノブイリ原発事故の発生はゴルバチョフにソ連の政治改革の必要性を痛感させます。

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