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若くして大帝国を築き上げた「アレクサンドロス大王」の生涯をわかりやすく解説

古代ギリシアに現れた偉大な英雄アレクサンドロス3世。彼は、のちの世で大王とよばれます。20歳で即位したアレクサンドロスは、ギリシア世界を脅かし続けた大国アケメネス朝ペルシアを打ち破り、東はインダス川、南はエジプトまで領土を拡大。史上空前の帝国を作り上げました。今回は空前の帝国をわずか10数年で作り上げ、若くして亡くなったアレクサンドロスについてわかりやすく解説します。

アレクサンドロスの幼少期から青年期

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アレクサンドロスはギリシア北方の新興国、マケドニア王子として生まれました。アレクサンドロスの父であるフィリッポス2世はアレクサンドロスの師として当代一の学者であったアリストテレスを招きます。偉大な父フィリッポス2世と、師アリストテレスの薫陶を受けた青年アレクサンドロスは健やかに成長しました。

アレクサンドロスが生まれたマケドニア王国

マケドニアはギリシア北方にあった国でした。マケドニアはギリシア本土の北に位置し、エーゲ海北岸の平野部と山岳地帯からなります。マケドニアの首都ペラは現在のテサロニケの北方にあり、アレクサンドロスもこの街で生まれました。

マケドニアはギリシア系の民族が建てた国でしたが、本土のようなポリスは形成せず王による政治が行われます。そのため、ギリシア本土の人々からは同じギリシア人とはみなされず、バルバロイ(異民族)扱いされました。

ペルシア戦争でペルシア勢力がエーゲ海から後退すると、マケドニアはアテネなどのギリシアのポリスと関係を深め、エウリピデスなどの著名な作家も招かれます。こうしてマケドニアの王たちは積極的にギリシア化を進めました。

偉大なる父、フィリッポス2世

ギリシア本土の人々からバルバロイ扱いされたマケドニアが、一目置かれるようになるのはアレクサンドロスの父、フィリッポス2世の時代からです。

フィリッポス2世は若いころ、ギリシア本土で一時期覇権を握ったテーベに人質に出されました。このとき、ギリシア風の重症歩兵戦術を学んだといわれます。

帰国後、マケドニア内部の権力争いの勝利し、王権を強化したフィリッポス2世は精強な騎兵隊と長槍で武装した重装歩兵からなる軍団を組織し、マケドニア軍を飛躍的に強化。紀元前338年にはカイロネイアの戦いでテーベをはじめとするギリシアポリス連合軍を撃破し、ギリシアの覇権を握ります。

フィリッポス2世はスパルタを除く全ポリスを加盟させたコリントス同盟を発足させ、自ら盟主となりペルシア遠征を企図しました。しかし、フィリッポス2世はペルシア遠征に出陣する直前に暗殺されてしまいます。

アレクサンドロスの師となった哲学者アリストテレス

フィリッポス2世は、息子のアレクサンドロスを育てるにあたり高名な哲学者をマケドニアに招きました。それがアリストテレスです。アレクサンドロスは13歳からの3年間、アリストテレスのもとで学びました。

アリストテレスは17歳でプラトンのアカデメイアに入学。20年にわたってアカデメイアで学びました。アリストテレスは、ソクラテスやプラトンの思想を受け継いだ哲学者というだけではありません。政治学・文学・倫理学・論理学・自然科学などあらゆる学問に通じていたため「万学の祖」とも「諸学の父」ともいわれます。

アリストテレスはアレクサンドロスが父のあとを継いだ年にアテネに移り住み、リュケイオンという学校を設立しました。アリストテレスの学問はヘレニズム世界に広がります。

中世にはイスラム世界で研究され、イブン=シーナーがアリストテレスの著作をアラビア語に翻訳しました。アリストテレス自身は、アレクサンドロスの死の翌年にこの世を去ります。

 

アレクサンドロスの東方遠征

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フィリッポス2世の突然の死により、アレクサンドロスは20歳でマケドニア王に即位。父が果たせなかったペルシア帝国打倒のための東方遠征に出発します。アレクサンドロスはペルシアの大軍を幾度となく打ち破り、空前の大帝国を建設しましました。しかし、アレクサンドロスは33歳の若さでこの世を去り、彼の空前の帝国は後継者によって分割されます。

不敗を誇ったアレクサンドロス軍

アレクサンドロスの軍は騎兵と重装歩兵の2つのタイプを組みあわせた編成でした。騎兵は戦闘の主力で、敵軍に決定的な打撃を与えるときや追撃戦、奇襲攻撃などで威力を発揮します。

重装歩兵はフィリッポス2世が創設した長槍部隊。まるで、ハリネズミのように槍を立てて敵軍に突進します。ファランクスとよばれるハリネズミのような重装歩兵軍は正面からの敵軍と真正面から衝突するときに最大の威力を発揮。しかし、側面の防御は強くないので騎兵による護衛や有利な地形での位置取りが欠かせませんでした。

また、アレクサンドロスの指示に即応する近衛歩兵隊は、騎兵と同様、戦局を決する重要な場面で投入されるエース部隊です。アレクサンドロスは騎兵、重装歩兵、近衛歩兵を自在に操ることで大敵ペルシアを翻弄しました。

イッソスの戦いでダレイオス3世に勝利

紀元前334年、トラキアやテーベを討伐し後方の安定を確保したアレクサンドロスは、小アジアに軍を進めました。小アジアで勝利を重ねたマケドニア軍は、イッソスでペルシア王ダレイオス3世の軍と対陣します。

アレクサンドロスは数の不利を補うためにも、ダレイオス3世の本陣を急襲しました。数に勝るペルシア軍でしたが、狭い地形で大軍が十分に展開できず数の有利を活かせません。ペルシア軍の本陣は崩れ、ダレイオス3世は敗走。アレクサンドロスはイッソスの戦いに勝利しました。

アレクサンドロスは逃げるダレイオス3世の追撃より、後方の安全確保を優先。地中海沿岸地域やエジプトを制圧します。このとき、エジプトに彼の名を与えられたアレクサンドリアを建設しました。その後、征服した各地にもアレクサンドリアが建設されます。

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