日本の歴史飛鳥時代

聖徳太子の夢を運んだ「遣隋使」とは何だったのか?詳しく解説!

聖徳太子は、古代では革新的な皇子であったのは有名で、それ故に蘇我氏と対立して晩年には斑鳩の里に隠居同然になってしまいました。この聖徳太子が大和朝廷の革新を目的として送った使節が遣隋使だったのです。すわわち、聖徳太子の天皇中心の中央集権政治という夢を乗せて派遣されたのが遣隋使でした。 この聖徳太子の夢を実現するために送られた遣隋使について解説します。

遣隋使とはいつ頃なぜ送られた?

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遣隋使は、西暦600年から618年までの間に、当時の中国統一王朝だった隋に派遣された朝貢使のことです。この間に、3~5回送られています(隋書と日本書紀で回数が違う)。送ったのは聖徳太子と言われており、隋書などに記載されている「日出ずるところの天子云々」で始まる奏上文(国書)は教科書などにも記載されており、有名ですね。

しかし、聖徳太子は天子(天皇)ではなく摂政で、れっきとした推古天皇もおり、偽物説も出たほどです。しかし、西暦600年頃にはすでに九州の別勢力も駆逐されており、聖徳太子が隋と対等の立場の外交を強調するために用いたと言われています。

聖徳太子は、この遣隋使を何のために送ったのでしょう。その背景と目的などについて見ていきましょう。

聖徳太子が摂政になった当時の大和朝廷と遣隋使の背景

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聖徳太子が推古天皇の即位とともに摂政なった当時は、朝廷は蘇我馬子を中心とする蘇我氏とそのほかの豪族たちに牛耳られていました。推古天皇は最初の女帝であり、操りやすいことから蘇我馬子が擁立したのです

そして、摂政となった聖徳太子自身も厩戸皇子と言われ、蘇我馬子の妹を母として生まれており、蘇我一族として見られていました。馬子にとっては甥に当たる皇子だったのです。

厩戸皇子(聖徳太子)は、蘇我馬子と対立していた物部守屋との対立から、叔父の馬子が守屋を攻めたときには、積極的に戦いの先頭に立って戦っていました。しかし、その戦いの結果多くの人が亡くなったことが厩戸皇子の仏教への信仰心を強め、自我を目覚めさせたと言われています。

推古天皇の即位と聖徳太子の摂政就任によって遣隋使の必要性を認識

聖徳太子は推古天皇の摂政になるとともに、天皇家の一員であることを強く意識するようになります。聖徳太子が外来僧慧慈の影響によって仏教に深く帰依したことと、摂政として政治というものを深く勉強した結果だったと言えました。そして、聖徳太子は、政治革新が必要なことを強く認識して、そのためには中国の先進的な皇帝中心の中央集権政治がモデルとして必要なことを認識したのです。

そして、その中国の新しい統一王朝だった隋に遣隋使を送ることを決断したのでした。

聖徳太子はなぜ蘇我氏と対立するようになり、遣隋使を派遣しようとしたのか

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聖徳太子はなぜ蘇我氏と対立してまで、天皇中心の中央集権政治を目指し、遣唐使を派遣しようとしたのでしょうか。その背景を見てみましょう。

仏教帰依とともに聖徳太子の天皇家としての目覚め

厩戸皇子(聖徳太子)は、物部守屋討伐によって多くの死者を出した反省から、今の大阪に四天王寺を建立して仏教への帰依を強めていました。そして、摂政となった聖徳太子は、推古天皇2年の594年に聖徳太子は仏教興隆の詔(みことのり)を発します。豪族同士の争いによって犠牲者が出るのは、大王家(天皇家)の力が弱いからだと悟ったのです。その翌年には高句麗から僧慧慈を招き、彼から仏法を学ぶとともに、中国の新王朝である隋は律令に基づく官制が整った国であり、仏法も篤く保護していることを教えられました。

聖徳太子の政治は中央集権政治を目指したが対立を生む

その隋の政治こそ、聖徳太子が目指していた天皇中心の中央集権政治だったのです。それまでは、おぼろげだった聖徳太子の頭の中にはっきりとした政治の目標が浮かび上がったのでした。

しかし、聖徳太子が目指した天皇中心の中央集権政治は、蘇我氏をはじめ、朝廷でも力を持つ有力豪族たちにとっては受け入れられないものだったのです。古代からの豪族たちは、地方の領地に勢力を持ち、それを背景に朝廷で何でも自分たちに都合のよいように物事を決めていました。天皇(大王)さえいつでも首のすげ替えができる力を持っていたのです。現実に、豪族たちを押さえようとした崇峻天皇は彼らに暗殺されていました。

そのため、聖徳太子と豪族たちの関係は次第に対立関係に陥っていったのです。

蘇我馬子が亡くなると蘇我氏は聖徳太子に遠慮しなくなった

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その豪族たちの中心にいたのが、厩戸皇子(聖徳太子)の叔父の蘇我馬子でした。叔父と甥の関係だっただけに、蘇我馬子は表立って聖徳太子に反対はせず、豪族たちの不満を押さえてくれていたのです。しかし、蘇我馬子が亡くなり、息子の蘇我蝦夷(えみし)とその子の蘇我入鹿(いるか)が朝廷の実権を握ると、聖徳太子に対して遠慮なく政策に反対するようになります。そのため、聖徳太子の政治の指導力は大きく低下していかざるを得ませんでした。

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