奈良時代日本の歴史

奈良時代とはどんな時代?主な出来事をズラッとまとめてみた

「古事記」「日本書紀」が完成する

奈良時代には、重要な書物が編纂されています。

現存する日本最古の歴史書とされる『古事記(こじき)』も、奈良時代に完成しました。

もともとは、天武天皇が命じて作り始めたもの。天武天皇とは天智天皇の弟、大海人皇子です。それまでも、日本の国の歴史を綴った歴史書はいくつかありましたが、大化の改新の発端となった蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)などの影響で焼失。動乱が落ち着いた頃合いを見計らって、天武天皇が新しい歴史書の作成を命じました。

そして『古事記』が完成したのが712年。編纂開始から完成まで、30年ほどの年月が経過しています。

内容は、日本の神話の時代から始まり、初代神武天皇から推古天皇まで、各天皇の時代の出来事や業績など。上・中・下の3巻から構成された歴史書です。

『古事記』完成から8年後の720年、現存する日本最古の正史と呼ばれる『日本書紀』が完成します。

こちらも、天武天皇の命によって編纂されたもの。『古事記』の編纂開始から3年ほど経った頃から、編纂作業が始まっています。

『日本書紀』は全30巻と系図1巻からなる大作。内容はやはり、神話の時代(天地開闢・てんちかいびゃく)から始まり、第41代持統天皇の時代までの出来事が記されています。

ほぼ同時期に、同じ天皇の命令によって編纂された2つの歴史書。一般的には『古事記』は神話的な記述が多く天皇の功績や歴史を記したもの、『日本書紀』は歴史的な出来事がたくさん記されているため日本初の国史・正史である、と解釈されることが多いです。

聖武天皇、疫病流行に悩み大仏建立を決意

奈良の観光名所にして世界遺産にも指定されている「奈良の大仏」で知られる東大寺。これも、奈良時代に建立されたものです。

建立を命じたのは、724年に即位した聖武天皇(しょうむてんのう)。日本の歴史上、最も有名な天皇のひとりと言われています。

この時代、日本では疫病が流行り、農作物の不作が続いて人々は飢え、亡くなる人が絶えない状況が続いていました。聖武天皇が即位した翌年から数年間、近畿地方を中心に大地震や干ばつが続き……。

また、朝廷内でも、有力貴族たちが勢力争いに明け暮れ、都は荒れ果てていたのです。

この不穏な空気を払しょくするべく、聖武天皇は平城京を離れ、恭仁京、難波京、紫香楽京と、何度か住まいを変えています(都の位置や方角が悪いから災いが続くのだろうと考えた結果)。しかし状況は好転せず、聖武天皇はほとぼと困り果てていました。

もう、仏様にすがるしかない……。聖武天皇はまず、741年に国分寺・国分尼寺の建立の詔を発します。そして743年、平和と安泰を願い、大仏建造の詔(みことのり)が発布されたのです。

奈良の大仏の正式名称は毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)。万物を救済し幸福と繁栄をもたらす仏であると考えられています。

朝廷の力だけでは成し遂げられないような、前例のない大事業。行基という僧侶が全国を巡って人々に大仏建立の意義を説明し、お金と労働力を集めて回り、多くの人の尽力で、752年、大仏開眼供養が行われたのです。

「三世一身法」と「墾田永年私財法」

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奈良時代は、農民たちの暮らしにも大きな変化をもたらしました。

人間の生活において、食料の確保は重要な課題です。いくら立派な都があっても、農民たちが田畑を耕し農作物を収穫しなければ、人々の暮らしは成り立ちません。

飛鳥時代の頃は、朝廷が農民に土地を貸し出すというスタイルをとっていました。つまり土地はすべて朝廷のもので、農民に貸し出して作物を作らせていたのです。

しかし奈良時代に入る頃になると、人口が増え、もっとたくさんの食糧が必要になってきました。明らかに農地が足りません。

そこで723年、三世一身の法(さんぜいっしんのほう)という法律が作られます。

この法律は「新しく土地を開墾したら、その土地は孫の代まであなたのもの」というもの。こうすれば農民たちは率先して新規開拓に励み、農地が増えるはず、と朝廷は目論んだのです。

しかし、土地の開墾作業は想像以上に労力と時間がかかるもの。それに「孫の代まで」といっても結局それほど長い期間ではないので「苦労して開墾してもなぁ……」と、農民たちのモチベーションはなかなか上がりません。

そこで朝廷は、743年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を制定。「新しく土地を開墾したら、その土地は永遠にあなたのもの」としたのです。

これなら農民たちのやる気も出るはず。農地が広がって、都に入ってくる食べ物の量もどんどん増えるはずです。

この2つの法律は、その後の日本の農地制度に大きな影響を及ぼしました。

鑑真来日!日本の仏教の基礎が確立

奈良時代、日本の仏教にとって大変大きな出来事がありました。

中国大陸(唐王朝)から、鑑真という僧侶がやってきたのです。

この頃の日本は、疫病の流行や飢饉、大仏建立などが重なって、庶民は大きな負担を強いられていました。しかし一方で、僧侶たちは税金免除。猫も杓子も僧侶になりたがり、素人僧侶が横行して問題になっていたのです。

そこで朝廷は、ちゃんとした仏教を教えてくれる僧侶にお越し願いたいと、遣唐使を通じて唐王朝にお願いを出します。そこで選ばれたのが鑑真だったのです。

しかし、一口に「お越し願いたい」といっても、まだ海を渡る船も小さく、航海技術も未熟な時代。今なら飛行機で数時間で行き来できる距離ですが、当時の渡航は命がけの大仕事でした。

それでも鑑真は、仏教の教えを日本に伝えるべく、日本への渡航を決意します。

しかし、様々なトラブルや天災が鑑真の行く手を阻みました。海が荒れて遭難しかけたり、鑑真の身を案じた周囲の人々に引き留められて出国できなかったり。厳しい船旅の影響で両目を失明してしまうという悲劇も起きます。

それでも鑑真は日本を目指しました。

苦節10年。753年の冬、6度目の渡航で、鑑真はようやく日本の地を踏みます。このとき鑑真は66歳になっていました。

鑑真は日本の僧侶たちに「戒律(かいりつ・仏教において僧侶が守るべき決まり事)」を伝えます。また、759年、都に唐招提寺(とうしょうだいじ)を建立。僧侶たちの修行の場を作り、多くの僧侶を育て上げたのです。

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