えっ?もう遷都?平城京から長岡京へ
聖武天皇の肝入りで始まった大仏建立事業は見事成し遂げられ、大仏は完成しましたが、かかった費用や労力が庶民の肩に大きくのしかかっていました。
さらに、仏教寺院が力をつけ、何かと政治に口出しをするようになります。
加えて、人口増加の一途を辿る平城京は、物資の運搬や上下水の設備などが飽和状態に陥り、衛生面が懸念される時代に陥っていました。
そんな中、781年に桓武天皇(かんむてんのう)が即位します。
天皇の血筋も、代を重ねるごとにいくつかの系統に分かれ、時には衝突することもありました。大きな流れとしては、大化の改新で有名な天智天皇系と、壬申の乱で知られる天武天皇系の2系統。ここのところずっと、天武天皇系の天皇の即位が続いており、桓武天皇はひさびさの天智天皇系。当然、天武天皇系の貴族たちの動向が気になります。
桓武天皇はこれらの問題を解決したいと考えていました。そして思いついたのが遷都です。
平城京に引っ越してきて70年とちょっと。確かにいろいろ問題はありますが……。しかし遷都となると、莫大な費用と労力がかかります。反対する者も少なくありませんでしたが、それでも桓武天皇は遷都を決意。引っ越し先の選定が始まります。
784年、引っ越し先として山背国の長岡(京都府の南部)という土地が選ばれました。鴨川や宇治川といった河川が合流する、水が豊かで交通の便の良いエリア。平城京とほどよい距離感で、ここなら仏教寺院に煩わされることもないはずです。
桓武天皇熱望の長岡京建設作業は、反対派の抵抗などもあり、なかなか進みません。とうとう遷都の担当者が暗殺されるという大事件まで発生してしまいます。
長岡京への遷都に、よりよい未来を託していた桓武天皇。しかし、事はそう簡単には進みませんでした。
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うそ、また遷都?長岡京から平安京へ
長岡京への遷都を決め得てからおよそ10年、せっかく引っ越ししたのに、平安京へ遷都することが決まります。
理由のひとつが、長岡京遷都の際のいざこざ。遷都を担当していた藤原種継という人物が暗殺されるという事件が影響したと見られています。
この事件の首謀者は、桓武天皇の弟にあたる早良親王。桓武天皇は暗殺に関わった有力貴族たちとともに早良親王を処分します。
この頃、桓武天皇のご母堂や奥方が亡くなるなど、周囲で不幸なことが続きました。
都では飢饉や疫病が続いて、庶民は貧困にあえぐ毎日。
まさか、早良親王のたたりでは?
都にこんな噂話が流れるようになります。
このまま長岡京にいたのでは、人々の心は鎮まりません。
そこで考えられたのが遷都でした。
天皇を脅かす怨念を鎮めるべく、東西南北に青龍・白虎・朱雀・玄武を配置し、御所をがっちり護る設計を施した都をデザイン。京都の中心地に現在もその形を残す、平安京の誕生です。
794年、長岡京から平安京への遷都が行われます。とはいっても、まだ完全に引っ越しが完了していない箇所も多々ありましたので、平城京から直接平安京に移った施設も少なくありませんでした。
奈良時代はここまで。ここから、平安京を中心に400年近く続く平安時代が始まります。
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飛鳥時代から平安時代へ~大きな転換期となった奈良時代
聖徳太子や中大兄皇子が活躍した飛鳥時代はおよそ118年、菅原道真や紫式部、平将門などスターぞろいの平安時代は391年間。そのはざまで「奈良の大仏くらいしか思いつかない」など言われることもある奈良時代。こうしてみると内容の濃い時代であったことがわかります。仏教や内部抗争に振り回され「遷都」という伝家の宝刀に頼りすぎた感もある激動の時代に、現代を生きるヒントが隠されているのかもしれません。