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94歳で国会議員!日本の議会政治の父「尾崎行雄」の生涯と名言

「議会政治の父」「憲政の神様」と呼ばれた政治家、尾崎行雄。明治時代から戦後まで63年間も衆議院議員を務め、常に民主主義を擁護し続けました。骨のある政治家が少なくなった今、彼の生涯と名言を振り返って、日本の民主主義の原点を再確認してみたいと思います。

最長・最高齢の衆議院議員!尾崎行雄の生涯を振り返る

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尾崎行雄は政治の世界では大変有名な政治家なのですが、首相や衆議院議長などの要職を務めたことはありませんでした。現在では日本史の教科書でもあまり大きくは扱われていないので、その名前を知らないという方も多いかもしれません。そこでまずは日本の議会政治に偉大な足跡を残した議員、尾崎行雄の生涯について見ていきましょう。

尾崎行雄の生涯1・慶應義塾で英語を学び、政治の道へ

尾崎行雄は1858年(安政5年)、相模国津久井県(現在の神奈川県相模原市)で生まれました。父親は漢方医で、最初は儒教を勉強していたのですが、明治になると高崎に引っ越して英語を勉強し始めます。1874年(明治7年)に上京して、福沢諭吉の慶應義塾に入塾。諭吉は尾崎の才能を高く評価していて、慶應義塾を中退してからも「新潟新聞」の主筆に推薦したほどでした。

わずか20歳の若さでジャーナリストとして活躍した尾崎でしたが、1882年(明治15年)には大隈重信らと共に立憲改進党の設立に参加します。そして翌年には最年少で東京府議会議員(現在の東京都議会議員)となり、政治の道に足を踏み入れました。しかし当時の政権を批判する運動に参加したため、東京からの退去処分を受けてしまい、しばらくアメリカやイギリスで本場の議会政治を学んでいます。

尾崎行雄の生涯2・第1回衆議院選挙で当選

退去処分を解かれて帰国した尾崎は、1890年(明治23年)の第1回衆議院議員選挙で三重県から立候補して当選。ここからなんと25回も連続当選を続けることになります。1898年(明治31年)に大隈重信が総理大臣になって初めての政党による内閣ができると、尾崎は40歳の若さで文部大臣に就任しました。しかし議会での演説で揚げ足をとられて批判を浴び、病気を理由に辞任。大隈重信と板垣退助によるいわゆる「隈板内閣(わいはんないかく)」も崩壊してしまいました。

一時は伊藤博文の誘いで立憲政友会の設立に参加しますが、離党と復党をくり返して何度も所属政党が変わりました。1903年には東京市長に就任して、9年間在職。今では「東京23区」に分かれていますが、当時はひとつの「東京市」となっていて、東京市長は非常に重要なポジションだったのです。

尾崎行雄の生涯3・東京市長に就任、ワシントンに桜を送る

当時の東京は、銀座だけは洋風の近代的な建物が建っていましたが、ほとんどの地区は江戸時代とあまり変わらない街並みが広がっていました。しかし日清戦争が終わると工場なども増えてきて、都市整備が不可欠な状況になります。そこで尾崎は上下水道の整備ガス・電気の整備東京市電の設立などを行いました。東京市電は現在の都電で、今ではほとんどがバスや地下鉄に置き換えられましたが、現在でも荒川線で路面電車が走っています。

東京市長時代の有名なエピソードが、アメリカのワシントンへの桜の贈呈です。米国のタフト大統領夫人がワシントンのポトマック河畔に桜を植えたいと考えていることを知った尾崎は、2000本もの桜の木を贈呈。この桜には害虫がついていたために焼却されてしまいましたが、再び3000本の健康な桜の木を贈呈しました。この桜の木は日米友好のシンボルとして有名で、ワシントンでは現在でも毎年春に桜祭りが開かれています。

尾崎行雄の生涯4・「憲政の神様」と呼ばれる

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By 山尾平 – 目で見る議会政治百年史, パブリック・ドメイン, Link

1912年(明治45年)、東京市長を辞任。この当時の政治は明治維新の功労者である「元老」が牛耳っていて、桂太郎内閣は憲法を無視した政治を行っていると批判を浴びました。立憲政友会の尾崎は立憲国民党の犬養毅と協力して、憲法に基づいた議会政治を行うべきだという「憲法擁護運動」を展開。1913年(大正2年)に国会で有名な「桂内閣弾劾演説」を行いました。

すると数万人もの群衆が国会を取り囲み、政府寄りの新聞社が襲撃されるなど大混乱に陥りました。その責任を取って桂太郎内閣は総辞職。この出来事は「大正政変」と呼ばれ、日本の議会政治で初めて民衆のパワーによって内閣が倒された事例となりました。その中心人物であった尾崎行雄は、これ以降「憲政の神様」と呼ばれるようになります。続く山本権兵衛内閣もすぐに倒れ、大隈重信が再登板。尾崎は司法大臣として入閣しました。

尾崎行雄の生涯5・戦争中も意志を曲げない信念の議員

もともと対外強硬派だった尾崎ですが、1919年(大正8年)に第一次世界大戦後のヨーロッパを視察すると、戦争の悲惨さに衝撃を受けて帰国後は平和主義に転じます。また、男子ならだれでも投票ができるようになる「普通選挙運動(普選運動)」にも参加して、大正デモクラシーの潮流を作りました。治安維持法の反対運動や「反軍演説」を行った斎藤隆夫の擁護など、日本の軍国主義に一貫して抵抗していきます。

1931年(昭和6年)にカーネギー財団の招待で米国滞在中に、満州事変が勃発。尾崎は「日本は間違っている」と主張し続けました。1937年(昭和37年)、尾崎は胸に辞世の句を忍ばせて議会で決死の軍部批判を決行。1943年(昭和18年)には選挙の応援演説がもとで不敬罪で逮捕されてしまいました(のちに無罪で釈放)。「国賊尾崎を殺せ」という世論の圧力が強まっても、尾崎は自らの主張を決して曲げることなく、終戦を迎えます。

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